拝啓 あなたへ 3 (文
拝啓 冴羽獠さま
さま。って付けるのなんだかおかしいよね。
でもこれが一般的なんだって。
何度書いても出せないままの手紙がまた増えていくのかな。
あの日から三回目の春がもうすぐ来るよ。
ねえ、何処にいるの?
あの日から──
「…………」
手が止まる。少し思案して、書きかけの便箋の上で筆を置いた。
切りに行くのが億劫で伸びてきた髪はあの頃とは違う自分を見ているようで、香の顔に影が差す。
三年───
決して短くはないこの時間の流れの中で、
街も、人も、みんな何処か諦めて受け入れている。
「まだ、諦めてないのかのう?」
「馬鹿みたい…ですよね」
「そんな事はないが……」
綺麗に手入れされた庭を歩きながら、傍に咲いている名もなき花を労るように、目を細めながら見つめている横顔は年輪が深く刻まれている。
「香くん、獠は──あやつは───」
「獠は死んだりしていません。必ず何処かで生きています」
何度聞かれても同じ答えしかなかった。
強い意志は揺るがない。その裏でどんなに揺れていたとしても、弱音は吐かない。吐けない。だってあたしが諦めたらあなたは想い出の中で生きるしかなくなってしまう。
あの日あたしが離れる選択をしたから、全部が予期せぬ方向へと回り出した。
悔いても悔いても時は巻き戻らない。
だけど諦めるという選択はなかった。
だからがむしゃらに自分を鍛えた。独学では限界があるから、海坊主や美樹にも指南を仰いで、得意分野を中心にスキルの向上に淡々と日々を費やしてきた。三年前の自分ではもうないはずだ。それが例え獠が望まないものだとしても。
『三年、三年よ、もう───』
『もう充分じゃない?』
『あなたはあなたの──』
意味のある善意の言葉はそのどれもが香の心には届かない。
「教授」
「なんじゃね?」
春風が吹き抜けて、桜の花びらがはらはらと舞っていく。春はこんなにも優しい綺麗な季節なのに心はいつまで経っても晴れないままで。
「また会えたんです」
「……そうか」
「夢見物語と思って今日も聞いてくれますか?」
香がはにかんだように笑う。
「もちろんじゃよ。聞かせてもらおうか?」
「はい!」
もう一人の香に会えたこと
それが多分過去の自分だということ
何故時を超えていけるのかは分からないが、気がつけば過去の自分に会えていたこと
歯車が狂ってしまったあの時の選択を変えたいと思うこと
「それに……」
「それに?」
促すように視線を寄越すと、逸らすことなく見つめ返された紅茶色の丸い瞳に強い光が宿っている。
「あの日失くしたものを取り戻しに行きます。きっとあの日に帰れるはずだから。あたしはそう信じています。」
本当に夢見物語じゃな、と教授が視線を下に落とす。
だが……、と再び視線を香に移す。
乗ってみるのも悪くはない、とそう思った。
人生にアクシデントは付き物で、二人の道が交わらないままならば、夢見物語でさえ手繰り寄せたくなる気持ちになってくる。
なにより───
香の顔を見つめながら一人頷く。確信する。
重ねた年の中で人が壊れる様も、正気を失い現実から逃避する姿も嫌というほど見てきた。
この娘は違う──
カンのようなものでしかないが、あながち馬鹿にはできず、実際にそれに頼って潜り抜けた場面も多々あったのだ。
過去が変われば未来も変わる
リスクは承知だし、実際どうなるかなんて数学的な理論や勘定で弾き出しても、未来を測るのは誰にも不可能でしかない。
「それでも、賭けてみるか……」
香は光を失ってはいない。
それは獠という存在を求めるからこそだ。
「詳しく話してくれるかのう?」
春の先には必ず夏が来て秋や冬を通り過ぎていくように、時間は巻き戻らない。
けれど、できる、できないではなく願いはどこまでも自由だ。
「願いは一つ、じゃな」
超えていけ。と願う。
人の思念は時に常識を遥かに超えていく
あれは年を跨いでしばらくした頃だった。
獠が怪我をした。
深い傷ではなかったが、香を庇って目の前で赤い鮮血が散った。何もできなかった。足は動かず、両手の先まで鉛のように重くて、それでもなんとか獠の方へと手を伸ばせば、傷口を押さえて洗い息を吐きながら、
『大丈夫だ』
と、頭を撫ぜられた。
香が頭を激しく振る。もう一度獠が諭すように口を開く。
『香、大丈夫だから。ここで待ってろ』
飛び出して行った背はいつも一人で全てを背負っていくから。こんな時でさえまた甘やかされていることにぎゃっと両手を握りしめる。
あたしに出来る事は?───
共に生きると誓ったあの日が、迷子のように見えなくなる日もある。
走り去って行った方角から、派手な爆風が巻き上がり、パイソンの重い音が香の耳にも届く。まだ終わってない──切り替えた頭の中で、獠ならどう動くかだけに思考を落とし込んで、いま自分ができる事をできる場所へと駆け出した。
獠の怪我で、内心激しく自身を責める日が続いていた。
『はあ……しっかりしろ、あたし』
前向きな心はいつだって持ち合わせている。それでも弱った隠した部分に、悪いタイミングは重なるから人生ってばままならない。
『槇村香だな』
ざわりとした肌の上を抜けていくような、恐怖とも違う名の知れぬそれに、こめかみから脂汗が滲んでいく。
敵わない──
察すると、無理に動くのは得策ではないとただ声の主に静かに対峙する。
銃やナイフで脅されているわけではない。
それでも、声を発するのさえ意識を強く持たないとできないくらいに体が恐怖を感知している。
『一度しか言わないからよく聞け。冴羽を殺されたくなければお前がこちら側に来い。悪いようにはしない。ただ利用するだけだ』
『利用?』
意図することが分からずに声は険しくなる。
『冴羽を殺るよりは、お前を使って利用する方が遥かに価値がある』
『そんなに上手くいくかしら? 獠は例えあたしがそちら側に行っても何も変わらないかもしれないわよ』
『その時は二人とも消せばいいだけだ』
ゾッとした。抑揚のない声はそれが本気だと突きつけてくる。
『……あたしに選択肢は?』
『選ぶのは自由だ。冴羽が生きる確率がゼロになるだけだがな』
香の思考が獠の生存の有無だけに囚われる。負けるわけがない──でも、あたし自身がまた足枷になる──獠は、獠は───
完璧なわけじゃない。怪我だってするし、痛みも感じる一人の人間だから。
誰よりも側で見てきたから分かっている。
だったらあたしに出来る事は───
『いい子だ、物分かりのいい女は嫌いじゃない』
『あなたに好かれたって全然嬉しくないけど』
ニヤリと男は笑うと、闇に静かに消えていく。
『場所も時間もその時になれば分かる。俺が現れた時が合図だ』
『……』
『また会おう』
暗闇の中から聞こえた声は、変わらず無機質で感情のないロボットにさえ思えた。
張り詰めた気持ちを解放すると、力無く膝から崩れ落ちていく。
『獠……』
最善が何かは分からない。
『あたしに出来る事は……』
呟いた問いかけは冷たいアスファルトに落ちていくようで、凝視するようにただ一点を見つめていた。
海での一件からしばらく経ち、お互いに肝心な事は何一つ話せないまま、さらさらと時だけが過ぎていた。
タイトなスーツに身を包んだ香が、周りを警戒しながら異常がない事を確認すると、ふうと一つ息を吐く。
春も近いのにひどく寒い日だった。
右耳につけたイヤホンから、聴き慣れた声が微かなノイズと共に振動として伝わる。
「そっちはどうだ?」
ノイズは消え、クリアな少し低い音声が耳に心地いい。
「そうね、特に怪しいやつは見当たらないけど……」
耳にジャストフィットのイヤホンは、普段つけ慣れていないせいか違和感を少し感じながらも、ダイレクトに耳に伝わる声にいちいち胸が跳ねそうになる。
無駄に声がいいってなんなの、もう。
悪態を一つついてみるが、気分は悪くない。
「香?」
「……何?」
「特に何事もなく終わりそうだよな。だが、気をつけろよ。気になる奴がいたら知らせろよ」
「分かってる」
月末に舞い込んだ依頼は、獠が渋る男からの依頼だった。予想通り逃げ腰になった所を「あんたねえ」とハンマーを片手にギロリと睨みつけると、「はいいっっ!」と数センチソファから飛び上がる。それから始まった香の今現在の冴羽商事の経済状況とやらを、うんざりするくらいに聞かされ、「しばらく肉は無理かも」というトドメの一言にとうとう白旗を上げた。
『月末に開かれるオークションの警備をお願いしたい』
というシンプルな依頼で、どうやらそこそこに有名な絵画なども放出される為、万が一の盗難などに備えて依頼をお願いしたとの事だった。
念の為に獠がオークションの裏を洗ったが、懸念材料は見当たらず、むしろチャリティーにも協賛している長く続くイベントの一貫らしいとの結論に至っていた。
反対側のフロアに移ろうとしたその時に、
「すみません」
と、背後から声が掛かり振り向くと二つの瞳に冷たく見下ろされていた。
「!!」
数ヶ月前の出来事がフラッシュバックする。今がその時なんだ、とあの日の男の言葉が蘇り、視線を右に左に流していくが、人影は見当たらない。
多分、香がこの場所に配置されることまで把握されていたのだろう。よく見るといつの間にかフロアの先の先程まで開け放たれていた扉は閉ざされていて、男と香の二人だけの空間になっている。
「また会えたな。悪いが時間切れだ」
「……そうみたいね」
「それで? どうする?」
「行くわよ」
答えた後にスッと頭が冷えていく。
「香?」
イヤホン越しの声に一瞬揺らぐが、キュッと瞳をキツく閉じて手早くイヤホンのスイッチをオフにする。
「冴羽は何分でここに着く?」
「……五分はかからないと思うわ」
「長居は無用だな。来い」
加減なく掴まれた腕の痛みに顔が歪む。
「逃げたりしないから離してよ」
「どうだかな、早く来い」
これでいいんだ、と頭の中で言い聞かせるように駆けようとしたその時──
頭上から閃光が走り、視界が奪われる。
「計ったな!」
男が右手で顔を覆いながら、吐き捨てるように怒鳴ったが、香が激しく首を振る。
「違う! そんな事───」
「生憎彼女じゃないわよ」
ガタ! という音と共に、天井の辺りから塊のような気配を感じると同時に、バンバンと
銃声のような音が部屋中に響きわたる。
「クッ!」
という声がすると、床に何かが転がる鈍い音がして、左足に倒れ込んできた人のような負荷がかかる。
「大丈夫?」
まさか、そんな───
視界を奪った閃光は消え、部屋の様子がぼんやりと認識できていく。香の腕を掴んでいた男は意識を失い、床に転がっているが外傷らしきものは見当たらない。部屋の隅には、男の持ち物であろう銃が鎮座している。
「さ、早いとこ縛っちゃうから待っててね」
そう言うと、担いだバックパックから結束バンドを取り出して手早く両手を拘束した。
「ん、まだこれだけじゃあね」
再度バックパックから今度は縄のようなものを取り出して、ぐるぐるとキツめに何重にも縛っていく。
「やっぱり、これが安心なのよね」
気を失った男を見下ろしがながら、にっこりと笑ったその顔に、同じ顔なのについ見惚れてしまった。
「どうしてここが?それになんで───」
「後二分くらいかしら?」
「え?」
言葉の意味がわからず、戸惑いが隠せないでいると、ドアの方を指差しながら
「アイツが来るのがね」
「!獠!? なんで───」
こんな事あるはずない。身震いさえした。行動の先を把握されているのだ、と本能的に警戒心が振り幅を超えていく。
「あなたは誰!? どうしてあたしの事を───」
不意に白くて細い腕が差し伸べられて、耳元から両手で包み込まれる。
頬に当たる手のひらの冷たさにはっとする。
「聞いて」
自身に向けられた声に顔を上げると、あたしと同じ顔をしたその人に、何故か切なそうに見つめられている。
「離れちゃダメ。絶対。お願い」
「だけどっ!───」
やり場のない気持ちを叫び出すように吐露して、唇を噛む。
紅茶色の瞳が優しく弧を描き、耳元を軽く撫ぜられて、包み込まれた両手で香の顔を掬い上げて、笑う。
「大丈夫。大丈夫だから。獠ならきっとあなたごと全部守ってくれる。このままあなたがいなくなる方が、もっとどうしようもなく後悔することになるわよ」
「あたしは! 守られるだけじゃ───だから───」
「うん、分かってる。あなたの気持ちは全部分かってるわ。大切だから。誰よりも大切だから誰にも言えなくて。だけどもう頑張らないで。自分で全部終わらせようとしないで。ちゃんと獠に頼っていいのよ」
強い瞳から優しい気持ちが余すことなく伝わって、泣きたくなんかないのに気持ちと反比例して目尻は熱く熱を帯びていく。
抱えきれなかった想いは、優しさに溶かされて、心ごと包み込まれた気がした。
「大丈夫。あなたはちゃんと獠の事を守ってる」
張り詰めた糸は、緩んで解かされて、溶かされて、言葉に救われて、香の瞳に丸い雫が溢れて頬をつたう。
「来たわね」
言葉と同時に、ガン! 派手な音と共にドアが勢いよく開いて、スーツ姿の獠が飛び込んできた。
「香!?」
見開いた瞳は、こちらを確認しながらあたしの目の前のもう一人のあたしを映している。
「君は───」
獠の声に僅かに眉根を寄せながら、あたしであろう人が哀しそうに笑う。
「獠……」
途中になりますが上げさせて頂きます🙏
二人のお誕生日お祝いは今日か明日にはできたらいいなと思います(๑˃̵ᴗ˂̵)
お話の方はもう少しだけ続きます🙏🙏🙏
読んで頂いて本当にありがとうございます(*´-`)
2024.4.5
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