a wish 前編(文
晴れた青空の色の下、囲まれるように視界を奪われる。
反射的に身構えると、立ち並んだ男の一人が背広の内側に右手を差し入れるのを瞬時に捉えて、ハンドバッグに手を伸ばそうとして思考が固まる。
そうだーーー
脂汗がひんやりと背中をつたう感覚で動悸が止まらない。こんな場所で晒していいものではないから余計に状況判断に迷いが生まれる。
「槇村香さん。ですね?」
お決まりの文句だ。いやに落ち着いた声色が跳ねる動悸を更に加速させていく。
「…………」
肯定も否定もしない。最善の選択は何かと、焦りに飲み込まれないようにと一つ息を吐いた。
先週よりも一段と冷え込んだどこか灰色がかった世界に白い息が溶けていき淡く、消える。
「御同行願います」
差し出されたのは命を奪う類のものではなく、小さな手帳。身に覚えはないが、ある時期まではごく自然に見慣れていた。
父さん……
アニキ……
家族として、どこか誇らしげに思えていたそれが、何故目の前にあるのかが分からない。
「先日の西新宿での一件、ご存知ですよね?」
「何の話?」
違法だらけでギリギリのラインをすり抜けて、未成年の子達を働かせていた店に摘発が入った。冴子さんからの依頼で動いていたあの件だろうか。西新宿での事で思い浮かぶことといえばそれぐらいだ。
何故今ここでこんな形で問われるのかと、次の言葉を待ちながらいいようのない不安に襲われる。何よりこのまま連れて行かれるという事は、ハンドバッグにいつも鎮座しているモノの出所と所持理由を話さなければならなくなる。そんなことで獠に迷惑をかけるわけにはいかない。
何があってもそれだけはーー
「冴羽獠。彼の関わりが疑われています。ただここ数日足取りが掴めません。彼に一番近いとされるあなたにお話を伺いたいと思います」
まさか獠の名前が出るとは思ってもいなかったから、思わず目の前の男を凝視する。
罠だろうか。獠が足がつく痕跡など残す訳がない。訳がないけれど、それならばこの状況はどう説明がつくのだろう。
香の胸は止まない強い慟哭を打ちそれは見えない焦りを生む。
「…………」
獠が不在なのは本当だった。
西新宿の一件とは別の依頼でここ数日冴子と共に山奥に篭りっきりになっている。
電波がうまく届かない場所で、あまり頻繁に連絡が取り合えておらず、ただ、もうすぐ片が付くからとだけ昨晩、短い連絡を受けてはいた。
『獠、疲れてる? 声、なんだかそんな感じがする』
『……ばーか、俺はそんなにヤワじゃないってーの。とにかく! さっさと片付けて帰るから、メシ頼むな』
『分かった。あ、獠! リクエスト、ある?』
さっさと切られそうだったから、引き止めるように早口で会話を繋いでいく。
声を聞かせて。
そう素直に言えれば、もっと早く関係が変わっていたのかも。と思うことばかりだが、これがあたしなんだから仕方ないと、トクンと波打つ胸と共に返答を待った。
『なんでもいい……おっと、じゃあな! 冴子のやつ人使い荒いっててーの! 香! 戸締りちゃんとしろよ』
そう言って、あっさりと電話は切れた。
プープーと通話が終了した機械音だけが響く。
「なによ……子供扱いして……そりゃ冴子さんと比べたらーー」
言えない気持ちを吐露しながら、へたりと床に座り込む。こんなのダメだ。堪らなく自身に嫌気がさして膝を抱えてため息を一つ落とす。
「あー! もう! バカ獠!」
違う。バカはあたし。こんな感情は仕事のパートナーにはきっと必要ない。
気持ちに目を瞑ることは得意分野で、諦めはこの体に染み込んでいる。
獠は何も変わらない。
変わらなければいけないのはあたしなんだと、何度目か分からない楔を胸に刺す。
誰と何をしていても構わない。それは本心かはどうでもいい。この厄介な感情は落とし所をいつも探していて、痛みを伴うものだけれど、それでもやっぱり笑っていたいと思う。
「仕事なんだから。しっかりしなさい」
呟く言葉は、他の誰でもないあたしへの叱咤だ。
明日になれば。明日になれば何でもない顔をしてきっと帰ってくるはずだからと、冷えた体と心許ない気持ちを抱き締めるように、背を丸めながら、更に強く両手で膝を抱えた。
「槇村さん、ただお話を聞かせて欲しいだけです。そうすればすぐに解放できますから」
思考が引き戻される。穏やかだがピリとした圧のある声色に体が軽く強張る。
「あたしは……」
「冴羽獠のパートナー。職種についてはここでは問いません。署で伺いたいと思います」
「違う…」
「いいえ、違いませんね。違うという根拠は?」
「それは……」
どう答えれば獠の身が危うくならなくて済むのだろう。こんな場面は想像すらしていなかった。
「任意同行なので拒否権はありますが、その場合、冴羽獠本人に直接話を伺いにいくまでです」
任意同行なら拒否権はあるはずだが、獠本人へ火の粉が飛ぶのは避けなければならないのではないだろうか。冴子のように気心が知れた相手ではない、国の機関の枠の中で動いている人物達から疑いの目を向けられるのは、とてもまずい事態に思えてならなかった。
「当日の行動を聞くだけです。それが分かればあなたを解放しますし、冴羽獠本人にまでわざわざ同行願うことはないですよ」
フルネームで呼ばれるのがやけに勘にさわる。そんなふうに呼ばないで。と喉元まで声が迫り上がっていくが、唇を噛み締めて飲み込む。
やっぱり罠なのかもしれない。
警察が全てにおいて公正でないことなどあたしにだって分かる。それでも乗らないわけにはいかないと思った。
「……わかったわ。行けばいいの?」
任意ということは身体検査まではないはずだ。とりあえずはバッグの中身で探られることはないだろう。鎮まれ心臓。動揺は伝えない。ちゃんと歩け、あたしの足。
声がうまく伝わってこない感覚に陥るが、相手の唇の動きに曖昧に頷く。
獠は無事だろうか。ううん、獠ならきっと大丈夫。だって帰ってくるって言ったから。
開かれた車のドアに、滑り込むように乗り込んだ。
灰色の空間は、テレビ越しにみていたものと随分と違って見えた。もっと無機質でなんだか澱んでいる。窓が一つと扉が一つ。窓には鉄格子までご丁寧にあって、香は思わず肩をすくめた。
「カツ丼は?」
「……ないですよ」
「へえ、残念」
そういえば数ヶ月前に獠がこんな会話のやりとりをしていた気がする。
ぼんやりとそんなことを考えていると、クッと鼻につく笑いが耳に届いた。
「……なんですか?」
「いえ、余裕だなと思って」
「……聞きたいことって? あたし早く帰らなくちゃいけないから手短にして下さい」
「手短に? それはどうかな」
軽い違和感を覚える。今頃になって気づくが、この部屋には香と目の前の男二人きりだ。そんなものなんだろうかと心の中で疑問点を整理していく。何が、とは明確になってはいないが、この場にいてはいけないと頭のどこかが警告音を鳴らす。
「あの……こういうのって普通ですか? あなたとあたしだけなら会話しても後で言った言わないにならないのかなって」
「ああ、それ」
まるで興味がない口調の男の言葉に、
「それ?」
と香の瞳が丸く開く。
「そんなことより二週間前の土曜日、西新宿のホープという店に冴羽は確かにいたんじゃないか?」
「……まるで容疑者みたいに呼ぶのやめてくれる? 二週間前の土曜日? そんなお店、あたしも獠も知らないけど」
それは嘘だ。確かにいた。けれど正確に言えば店の中ではなく店の外の踊り場で、逃げ出してきた客の一部と少しやり合った。客の中には大物政治家なども混ざっていて、違法な場所に関わりがあるとどうなるかなと散々獠に脅されて、蜘蛛の子を散らすように逃げていったあの男達の中の誰かの恨みからだろうか。
真意が分からない。膝の上でギュッと強く両手を握りしめた。
灰色の空間は視覚だけではなく、心も疲労させていく。焦りがまた一つぽたりと雫を落とす。
「知らない? そんな訳ないだろ? 確かにいた。お前も冴羽もな」
驚いて弾かれたように瞳を合わせて、目の前の男を凝視する。
「あなたは……」
「居たんだよ、俺も。あの場にな」
「!?」
向かってくる感情は、薄い笑いと共にまとわりつく様な嫌悪感を伴い、冷えた瞳は仄暗く揺れている。
「………」
何も言葉が紡げなかった。何を言えばいいのか分からない。正解はどれだろう。あたしの一言が獠の足元を掬ってしまうのかもしれないと思うと、喉の奥から震えが込み上げてくる。
「だんまりか? 言っただろ? この俺自身が証人なんだよ。さあ、吐いちまえよ」
「…随分な言い方ね。それ、脅しじゃないのかしら?」
「なんでもいいさ。あんたが役に立たないなら、次の手に行くまでだ」
「だから知らないって言ってる。あなたが見たのが誰だか知らないけどあたしも獠も関係ないから」
負けるもんかと挑むように睨みつける。こんな空間からは早く立ち去りたい。
「帰りたいんだろ? だったら楽になれよ。冴羽を売ればあんた一人は見逃してやる」
「だから! 知らないって言ってる!」
途端、香の語気が荒くなる。
「いい事教えてやろうか? 冴羽は今頃うちの野上とよろしくやってるさ。もちろん仕事だけじゃなくて…な。あんたは何も知らない。知らないまま馬鹿みたいにあいつの世話をしてそれでいいのか? パートナーって奴は随分都合の良い存在なんだな」
瞳の奥がじわりと熱くなっていく。そんなんじゃないと声に出したかったけれど、頭の中のどこかで感じていた猜疑心を真っ直ぐに抉られて、頭も口もうまく回らない。
それにーー
例えば、それが真実だとしてもここで口を開く事で、獠が居なくなるぐらいなら。そんな事になるぐらいならーー
「…知らないって言ってる。それ以上言うことはないから」
ヒヤリとした感覚が全身を包んでいく。どこかの感情のスイッチは今は捨てるべきだと思った。
「……どうしても言わない気か? 言えよ! 言えって!」
汚れた獣が牙を剥く。
香の手首はきつく握られ、ギリギリと締め付けられていく。血が滲むほどの圧力に、悲鳴を上げそうになる。
「だから! 居たんだろって?! 言えよ! 早く!」
「し…ら、ない……」
「!!」
怒りは加速していき、火がついた獣は香の痛みに構うことなく、手首を更に砕いていく。
「きゃあああ!!」
響き渡る叫び声に、慌てたように男が乱雑に香の口を塞ぐ。
触らないで!
全身で拒絶をするが、塞がれた口から言葉は漏れてはこない。ガタンという音と共に香の体が椅子から滑り落ちた。
不透明になる視界と軽く麻痺したような思考の片隅で、誰かの声が響く。
「何かありましたか?」
「いや……何でもないから行っていい」
「しかし……」
「大丈夫だと言っている!」
「……わかりました」
声はそこで途切れて、また冷えた空気が灰色の世界を包む。
「乱暴はしたくないんだがな。君がいつまで経っても役に立たないからだよ」
「今の何かしら? これって合法なの? もしかしてマズイんじゃないのかしら」
ダメージを悟られぬように、スッと立ち上がりながら、軽くジャケットとジーンズを叩いた。右手は痛みはあるが動かせている。大丈夫。負けたりなんかしない。
「そこは君たちも同じだろう? 底辺の奴に言われる筋合いはないさ」
「……あたしは何でもいいけど獠のことを悪く言うのはやめて」
「…じゃあ、こうしようか。君はどうも冴羽に関しては折れることが無いようだ。それじゃあ野上はどうだ? アイツは冴羽と繋がってるんだろう? それを教えてくれるだけでいいんだ。君も冴羽も悪いようにはしないよ」
「何を言っているかわからないわ」
「野上だよ、野上。アイツが居なければ冴羽もアイツの元に行く事はないだろう? 俺も君もアイツが居ない方が好都合だから、利害一致だろう?」
頭を殴られたように思えた。
あたしはそんなふうに周りから見えていたのかと、情けなさで立っているのがやっとだった。勝手な嫉妬を掬い上げられて、獠だけじゃなくて、冴子さんの居場所まで危うくしてしまっている。
この男がやっている事はきっと職務を逸脱している。けれど術を持たないあたしは、どう立ち向かえばいいの分からない。ここで叫べば誰か駆けつけてくれるだろうか。でもその誰かが味方とは限らない。ここはあたし達の存在から一番遠い場所だ。
小さな窓から淡く差し込む光が、まだ日が差す時間だと告げているようで。
確かめるようにゆっくりと瞼を閉じる。
「野上のことを言う気になったかな?」
「何も知らない。あたしに聞いても無駄よ」
「……このままだと、あの事件に関わっていたと、ここでお前が自白したと報告もできるんだが」
「無茶苦茶ね。そんなの嘘じゃない」
香の言葉に、クッと男が喉を鳴らす。おもむろにまた右手を掴まれ、香の顔が痛みで歪んだ。
「立場を最大限に生かして、やり方さえ間違わなければ、難しい事ではないさ」
「……あたしが知ってる警察はそんな卑怯な事はしない。あんた本当、最低、ね」
「君のような、あんな汚れた男と一緒にいるような奴に言われたくないな」
「獠は汚れてなんかない」
「はっ! 真っ黒だろ? どこもかしこも」
「違う! あんたなんかに!」
「いいのか? このままアイツと野上の思うままにさせて。楽になれよ、なあ?」
この男から見えているあたしは獠と冴子さんの間でいじけている人間なんだろうか。楽になれ? ふざけんな。根底で波打つものが頬を熱く燃やす。
掴まれた手首をガンと男の目の前に晒す。
こんな事でーー
「こんな事で思い通りになるって思われてるなんて笑っちゃう。馬鹿なの? あなた」
「なんだと!? おまえっ!……」
あたしは他のどんな立ち位置にもいない。でもパートナーという確かな場所はあると信じているから。そこは誰にも渡さない。
男の顔がみるみる険しくなっていき、焦りが顔に滲んでいく。色濃く、醜く。
「言え! 野上と冴羽は繋がってるんだろ?!」
「知らない」
「言えよ!」
「知ら…ない…」
力任せに握られた手首が内側から軋む。短い悲鳴に男の眉が吊り上がり、右手が机に打ち付けられる。もう声すら出ない。霞む意識でそれでも違う言葉は口にするもんかと口を強く結ぶ。
「冴羽と野上は繋がってるんだろ!?」
「……」
声にならない声を精一杯吐き出すが届かない。男の指先が香の頬をなぞっていく。
「おまえと冴羽はあの場所にいただろ?」
「おまえはいたんだ! あの場に! 冴羽もだ!」
ぐるぐるぐるぐると言葉が回る。
手放した意識のカケラを必死に掻き集めるが、ままならない。
どうか、どうかーー
小さな窓の向こう側に広がる青空に瞳を細めて祈るように瞼を閉じた。
2021.4.27
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