思恋1 (文
※ シュガボちゃんの出会いから二人がもしもあの後何度か出会っていたら。のお話になります👧ifの世界線なので苦手な方はスルーでお願いします🙏🙇
一緒にいるととても心が温かくなった。
思い出すだけで、胸が不思議と痛くなった。
そんな憧れは淡く根付いている。
だけど大切な事を忘れていた事にふと気付いた。
そうすると、目が覚めたように見える世界が逆回りに戻っていった。
「ねー、香。あれからどうなったの?」
耳元で弾む声に、反射のように自然振り返りながら、問いかけられた意味に首を傾げる。
「あれって?」
「少し前に話してたあの話よ! あれから何かあった?」
主語がない会話は、彼女の関心事の何かが膨らんできた時の特徴的な様だが、何のあの話。なのかがまるで分からなくて、香の顔に困惑の色が浮かぶ。
そうでなくても、登校中の足早に急ぐ中でばったり出会した親友のよく分からない熱量に付き合う時間はなかった。
一時限目の小テストは苦手な物理なので、少し早く登校してほんの少しでも予習をしておきたい。ああ、もうだいたい先日中間テストが終わったばかりなのにここ数日つづく小テストの連続って鬼よね、鬼。一人ぶつぶつ呟く香の顔を、絵梨子が覗き込む。
「かーおーりー。だからさ、あのーー」
「ごめん! 絵梨子! ちょっと急ぐから!」
馴染んだローファーで地面を軽く蹴り上げる。
「ちょっ! 香!」
「ごめんね! また後で!」
駆けながら、振り向き、右手を顔の前に上げて、ごめんとジェスチャーを示す。
「もう! 香ーーー」
拗ねたような非難の声を背に、頭の中で物理の単元の方程式を何度も復唱してみる。
「あれ? これ合ってたかな?」
覚えた方程式が途端怪しく思えてくる。ヤバい。香の頭の中からは先ほどの絵梨子とのやり取りはすっかり抜け落ちて、中間でイマイチだった物理のせめてもの挽回の為に、視界に入った校門へと全速力にギアを入れた。
ぐーーー。
下腹部から聞こえた生理現象に、沈んだ気分が更に落ちていく。
何しろまだ三時限目が終わったばかりだ。
「だから、あの時体力使いすぎたんだってば」
不貞腐れたような呟きと共に、盛大なため息を落としながらバタンと机に突っ伏す。
「もうー!」
机の脚をカツカツと八つ当たりの捌け口に蹴りながら、一時限目のテストを嫌でも思い出す。
方程式はちゃんと分かっていた。そこはよかった。なのに肝心の式を解く。ということがまるでダメで、いったいいくつ合っているのか怖いぐらいだ。
ダメ、やっぱあたし、理数は無理だ。
かといって英語や国語や社会の文系が得意かと言えばそうではない。理数よりほんの少しだけマシだというくらいで、苦手な比率はさして変わらない。香の通知簿でいつもピカピカの一番いい数字が輝いているのは体育の一点で、家庭科は調理の分野などになると抜群に点が良い。音楽も悪くはない。兄は頑張ったな。といつもくしゃりと頭を撫でて褒めてくれるけど、正直三年ももう終わりに差し掛かろうかというこの時期に、このままでは何を目指していけるのかさえ分からない自身の成績は香のここ最近の悩みの種だった。
兄は大学に行けと言うが、なりたいものややりたいこともわからないまま、兄のお金を使わせてまで進学したいのかといえば、今のところそれは選択肢の端っこに追いやられていた。
またため息が漏れる。
「あー! 香、またため息ついてる!」
「絵梨子!」
香の目線に屈みながら、絵梨子が頬を膨らませる。
「あのね、そんなにふーふー言ってたらいい運までどこかにいっちゃうから」
「別にいいもん。あたし元々そんなの持ってないし」
「うわ、やだ。拗ねちゃってる」
「どうせ」
香も突っ伏したまま頬を膨らませる。
「テスト、ダメだった?」
「この顔見てわかんない?」
「わかりやすい」
プッと絵梨子が吹き出して、親友のそんな仕草に香の頬はますます膨らんでいく。
「はーー! もうテストばっかりやだ!頭パンクしそう!」
「だって三年だし、もう受験間近だし」
当たり前でしょ? と呆れ顔の絵梨子に
「絵梨子はだってやりたい事決まってるからいいじゃない。あたしなんて、何したらいいかさっぱりだもん」
そう言って、ジト目を向ける。随分前からずっと聞かされていた、デザイナーになりたいという絵梨子の夢は一ミリも揺らぐ事なく、卒業後の進路も早々に決めて、目標に向かってできる努力を重ねていたのを間近で見ていた分、何も見つからない自身がとてもちっぽけにさえ思えていた。
就職組、進学組ともに、推薦で早々に決まっているメンバーは残りの学生生活に余裕さえ感じさせていて、これから本番の生徒達も、勉学や面接の練習などこれから先の未来のために、できる努力をしている。未だどっちつかずなのはもしかしたら自分だけなのかもしれない。
香の心に日々焦りだけが募るが、それでもどうしても定まらない。
なによ。と軽く絵梨子が睨む。
う〜〜と低く唸りながら、香がゴンと机に額を当てて、痛い……と涙目になる。
「全く……、何やってんのよ?」
「だって、何も決まらないし、本気で焦る」
顔を伏せたままモゴモゴと話す香に、そうだ!
と思い出したように絵梨子が問いかけた。
「ほら、香。今朝のあの話! あれからどうなったの? 確かなんか探偵? みたいな仕事してるって言ってたじゃない。それ手伝ってみるっていうのはどう?」
あの話? 探偵?
数秒間、頭の中を二つの単語がぐるぐると回っていたが、はたとある出来事が思い浮かぶ。
香の眉間に浅い皺が寄る。
「あー、えーと、絵梨子が言ってるのってもしかして前に話したアニキの仕事仲間の話?」
「そうそう! その話! あれから香、何にも教えてくれないんだもの。いつ聞こうかってヤヤキモキしてたんだから!」
「……なんで?」
「え? だって香あんなに楽しそうに話してたじゃない」
楽しそう? そうだ、あの時はそう思ってたんだ。ほんの少し芽生えた淡い想い。でも今は一つの終わった出来事に過ぎない。
「楽しそう?」
「そうよ。だからさ、香の初恋が実るように、進路が決められないなら、決まるまでの間、バイトみたいに志願してみれば?」
絵梨子の瞳が夢見る乙女みたいにキラッキラに光っていて、思いがけない提案にムッと反論を返す。
「あたしの初恋はアニキだから」
「はあ?!」
忘れてた。あー忘れてた。この子ってば筋金入りのブラコンだった! げんなりした様子で喚く絵梨子を横目に、
「ブラコンじゃないけど」
と、口を尖らせる。
「何言ってんのよ。世間一般的にそーゆうのをブラコンて言うのよ」
「だって本気でアニキと結婚したかったし、そう言ったらアニキ、嬉しそうに頭を撫でてくれたんだから」
「……それっていつの話?」
「幼稚園? あ、小一だったかなあ?」
懐かしいな、と頬を緩める香に、絵梨子は冷ややかな視線を向けて、まさかのまさか、今も?と言葉に出さないまま視線で訴えてくる。
「そんなわけないじゃない。あれは子供の頃の話だから」
「そういえばよく言うわよね。パパと結婚したいーって小さな子が。あれとおんなじやつ?」
「あ、うん。うち父さんは忙しすぎてあまり居なかったから、大好きだったけど、いつも側にいてくれたアニキが自然そんな対象になったのかも」
父はとても優しい人だったけれど、日常の生活に居ない時間が長くて、兄と過ごす時間が大半だった。
懐かしむように、机の上で手を伸ばして首を横に向けて窓の外に広がる青空を仰ぐ。
物事の良し悪しの基準が兄が基準になっていったのはいつの頃からかーー
そう、だからあの時だってーー
「じゃあ余計にいいんじゃない? だってお兄さんも一緒でしょ? 例の彼の仕事って」
「絵梨子〜。だからなんか誤解してない? それにあたしが二人の仕事の手伝いなんてアニキが許さないだろうし、アイツも嫌だろうし、あたしも嫌だから」
「え? なんで?」
「なんでって……」
提案自体がズレてる事には気づかない親友に、香が苦笑する。
「だって香、その人の事ーー」
「違うから」
絵梨子が言わんとすることを察して、比較的強めに否定する香の様子に、絵梨子の瞳が丸くなる。
「違う?」
「違うよ」
「嘘」
「なんで嘘つかなきゃいけないのよ」
顔を上げて、机に頬杖をつきながら香が困ったように笑った。
絵梨子がずいと、香の目の前に顔を近づけて、じっと見つめながら口を開く。
「好きだったんじゃないの?」
香がゆっくりと首を振る。
「たった一回会っただけだよ。そんなわけないよ」
「でもーー」
あの時の香は確かに……そう口にしたい想いを絵梨子が飲み込む。目の前の香はあの時とは別の感情を抱いているのが伝わってくる。多分何を聞いても答えは変わらないだろう。
「……分かった。でもさ、理由ぐらい教えてくれてもいいんじゃない? 私一応、あの時から進展楽しみにしてたんだからね」
「なにそれ? 絵梨子そんな事考えてたの? 理由なんかないわよ。助けてもらって感謝の気持ちはあったけど、それだけだもの」
「…………」
頑なな親友の難攻不落さは今日はどうやら格別らしい。諦めたように、はあああと絵梨子が息を吐く。
「頑固者め」
「何よ」
「別に」
「あーもう! あたしそんな事より悩みが盛りだくさんなのにー」
声を上げながら、香が頭を抱える。
「よっし! 進路相談行くわよ! 昼食後直ぐに英語の鈴木先生のところね!」
「えええ!? 何で鈴木先生?」
「この前、『就職や進学に迷ったら読んでみよう』って本を持ってたから!」
ずるっと香が思わず椅子からころげ落ちそうになる。絵梨子の判断基準が正直よく分からない。
「あ、それとも〜〜」
ニヤリと笑う絵梨子の顔に、何故だか逃げ出したい気持ちが急激に膨らんでいく。
嫌な予感しかしない。それしかしない。
「私も一緒にモデルのーー」
「パス!!」
「え? 早っ。香〜、ものは試しで、もしかしたら新しい世界がーー」
「絵梨子、次の授業始まる!」
「!? やだ、ほんと! 行くね。香、それとさ、言いたくなったらいつでも聞くから」
最後はウインクしながら、席の方へと戻っていく絵梨子に、う〜〜と思わず変な声が漏れる。
「だから、何にもないって言ってるのになあ……」
逞しい親友は、香の口から新たな物語が紡がれる事をまだ諦めてはいないらしい。
絵梨子に言ったことは真実だが、ほんの少しの嘘も混じっている。あれから三度会った。正確には会ったのではなく、偶然見かけたのが二度で、三度目は兄と一緒のところに鉢合わせた形だった。
『獠』
『よ、槇ちゃん。と……えーと、こっちは』
『お前に紹介する必要はないが、俺の妹の香だ。香、こっちは俺の仕事仲間』
心底嫌そうな顔で渋々香の名を伝えながら、小声で、お前は覚える必要ないからな。と香の耳元で兄が囁いた。
『ひでーな、名前ぐらいーー』
『必要ない』
氷のように冷えた槇村の声が飛ぶ。
苦笑しながら、香の方を見る獠の瞳がすっと細くなる。
『香ちゃん、初めまして』
低くよく通る声が香の耳に響く。
『初めまして』
抑揚のない声で香が応える。まるで関心がない様子の香に、一瞬、獠が怪訝な顔をするが、直ぐにいつもの調子に切り替わる。
兄と二人で交わされているやり取りを横目で見ながら、避けるように自身の体を兄の後ろ側へと滑り込ませた。
香のいまの関心は今後の自身の進むべき道でいっぱいだった。少し前に心に小さく灯った想いはいつの間にかどこかへ置き忘れてしまったようだった。探す気もないけれど。
「あたしが探さなきゃいけないのは、これからの自分…だよね」
誰に聞かせるでもなく、力なく香が呟く。
やっぱりもう一度兄に相談してみようと、始まりのチャイムをぼんやりと聞きながら、空の青さの眩しさに目を細めた。
2021.10.17
0コメント