キオク ミライ 記憶 未来の先には 4 (文
振り向くともうそこには誰も居なかった。
暗い路地裏。
なんだかふと胸が痛んだ。
「香さん?」
「あ、ううん。何でもない」
「あれ〜? あの人もういない」
間延びしたひかるの声は沈んだ心に柔らかさを添える。
「…そうだね」
香が少し眉尻を下げながら呟く。
「ねえ香さん、今度お店に来たら聞いてみません? 名前のこと」
「…それは、お店の制服にあたしの名前入った名札付けてるからじゃない?」
「か、お、り、さん! 違うんだな〜。だってあの名札って苗字だけですよ。香。なんて入ってませ〜ん」
唇を尖らせながら、ひかるが腰に手を当てる。分かっているけど知らないふりをする。
「そうだったかな?」
「あー、誤魔化しましたね?ま、いいですけど。でもなんかあの人この前と全然感じ違うかったなあ」
「そう?」
先程より少し冷え込んだ気温が、頰に冷たい風を運んで、ぶるっと思わず身震いが出た。
「ひかるちゃん、もうそれはいいから早くお店行こう。寒い!」
「あ、ほんとだ、寒い! 寒い〜! じゃあこの話はまた後で。香さん、足はもう大丈夫ですか?」
「え? あ、うん。少しふらついただけだから何ともないわよ」
「じゃあ、一緒に早足でいきましょ? あったかいもの食べたいです〜!」
「え? あ、うわっ。ひかるちゃん?」
腕を組まれて、程よい力で前へと引かれる。愉しげなひかるの横顔が間近にあって、心なしか足取りも軽くなって行く。
今は暖かさに包まれたかった。
冷えた体は暖を求めている。
たわいのない会話を交わしながら、街の奥へと二人は溶け込んでいった。
「離したのはあなたでしょ? それなのにどうして!」
美樹の言葉が頭の中に木霊する。
選んだのは自身だ。
香の想いを見ないフリをして突き放した。
きっと悪循環なんだと思う。
現にああやって香は記憶のカケラで苦しんでいる。
きっかけは多分間違いなく自身なのだと思うと、取るべき選択は一つだとわかっているのに真逆の事ばかり重ねている。
知らないやつを見る瞳をしていた。
あんな瞳は向けられた事がない。
「何やってんだろうな……」
闇に紛れて消えたのは逃げたからだ。
それでも鼓膜の奥の奥でずっとあの声が消えない。
『やめてっーー』
体の何処かを貫かれたようだった。
声を絞り出すのが精一杯だった。
香、と思わず名を呼んだのは、多分に未練が含まれている。
映してほしい。
その薄茶色の瞳にあの頃のようにもう一度。
他の誰でもなく俺だけを
「…厄介だな……」
逃げた先に広がる暗い世界は仄暗さを濃厚に纏い、壁にもたれながら息を深く吐いた。
冬の寒さに染まる白い息は、あっという間に消えていく。
香の中の自身もこんな風に跡形もなくいつか消えていくのだろうか。
ずるずると力なく床に座り込む。
散乱したゴミ袋が散らばる床は、異臭を放つがそれさえどうでもよかった。
忙しない日常は慌ただしく過ぎていき、気づけば二月も終わりになろうとしていた。
あれから香の周りに不穏な出来事もなく、穏やかに日々が回っているが、少し気になる出来事が香の頭の中に鎮座していた。
あの日から何度か見しらぬ、いかにもマトモには見えない輩から同じような言葉を掛けられた。
『こいつ、あのーーー』
『待て! 手を出すとやばいぞ。アイツの……』
『…目の前にいるってのに手を出せないなんてな』
「なんなのよ、いったい……」
あたしはいったい記憶をなくす前は何処で何をしていたのだろう。
声を掛けてきた者たちは、香が知らない世界のいかにも、なアンダーグラウンドの住人たちに思えた。
「あんな人達が手を出せないって……も、もしかしてあたしってば、ヤクザのあ、愛人とかしちゃってたりする!? うそ……」
そんな考えに辿り着くと、昔見た任侠映画のあれやこれやが頭の中を駆け巡って、もうそれしかないんじゃない? とすら思えて、人目を憚らず頭を抱える。
「ど、どうしよう……全然覚えてないし、やっぱり何も思い出せないし」
「香さん? まずいですよ、今仕事中ですよー」
「うわっ!」
背後から聞こえたひかるの声に大きな声を上げた香に、
「香さん! しっ! 静かに! 店長に気づかれちゃいますよ!」
と、慌てながらひかるが、静かに。と人差し指でジェスチャーをする。
「ひ、ひかるちゃん……」
「えっ!? うわっ! か、香さん、何でそんな泣きそうな顔してるんですか? ま、待って下さい! もうすぐ休憩時間だからその時に! その時聞きますからね! 」
必ず聞きますからね、と念押ししながらひかるが客の元へと去っていく。
「おーい、ランチひとつ頼むぞ」
厨房から飛んできた声に、はっとする。
「仕事中じゃない、しっかりしろ」
誰にでもない自分に喝を入れる。周りを見渡せば、満席に近い状況でカランと音を鳴らして新規の客も店内に足を踏み入れてくる。
今日のランチのメニューはヒレカツで、人気のある定番の品で、特に客の入りもいい。
「槇村さん、どうかした?」
先程のひかるとのやり取りが聞こえていたのだろうか。心配げな様子の佐々木が、気遣うように声を掛けてきた。
「い、いえ、なんでもないんです。あ! ランチ運ばなきゃ。店長、これ七番テープルで間違いないですか?」
「あ、ああ、そうだけど」
「行ってきます!」
「槇村さーー」
心配を振り切る形になってしまった事を申し訳なく思いながらも、七番テーブルに足速に急ぐ。
記憶がないという事を改めて怖いと思う。
綺麗に磨き上げられた窓ガラス越しの外の世界は曇り空で、今にも降り出しそうな雨は自身の心のようで。
「お待たせしました」
上の空のまま事務的に出来立てのランチをテーブルにそっと置くと、不意に声が飛ぶ。
「槇村…さん?」
「?」
「大丈夫ですか?」
「あ!……」
スーツ姿に先日の客だと気付き、確か名前は…っと、記憶を辿る。
「武田…さん?」
「覚えててくれたんですね、名前」
「え? あ、は、はい……」
今思い出しただけなんだとは言えずに、はにかむように笑う武田に、曖昧に相槌を返す。
「また来て下さったんですね。ありがとうございます。お仕事場近いんですか?」
「はい。すぐそこのビルです」
「そうなんですね。いつもありがとうございます」
「あ、いえ…、そんな! ここのランチ美味しいし、それに、それに槇村さんにも…」
「あたしですか?」
首をかしげた香に、あたふたと明らかに武田が動揺している。
「武田さん? あ、お水のお代わりいかがですか?」
「お、お願いします!」
コポコポと注がれた水のグラスを勢いよく口に流し込む武田に香の瞳が丸くなって、
「お代わりお願いします!」
の声に慌てて次を注ぐ。
「喉、乾いてたんですね」
「え? あ、まあ……」
頭を掻きながら武田が罰が悪そうに笑う。
「ゆっくり召し上がって下さいね」
「は、はい」
七番テーブルを離れながら、自身の心が少しだけ晴れやかになっている事に気づく。
武田に抱いていた淡い想いと。
最近起きた身に覚えがない出来事と。
先日の記憶が断片的に蘇ってきた事と。
「それに、あの人……」
どうしてあたしの名前を知っていたんだろう。
「ううん……」
名前を知っているだけではないと思えた。
『香!』
あの人はあたしを知っている。
躊躇いなく名を呼んだ声は、見知らぬ者のそれではなかった。
そう思えば思うほど、掛けられた言葉や態度が香の中で噛み合っていく。
『そうだな…そうだったよな……』
『…すまない』
『なんでそう思う?』
はっと息を呑む。今思えば、あたしの記憶を引き出すかのように問われていたんだと、今更ながらあの時感じた自身でも何故かは分からなかった不快感の意味を理解する。
思い出せない事を聞かれたからだと思っていた。
「ううん、そうじゃない…」
まるで試すかのように聞いてきたから。全部分かっているみたいに。あの時のあの出来事をあの人は動じることもなく、対処していた。黒い闇を纏って。
微かに手が震える。あたしはあの人を知らないけど、多分知っていた。
あの時見たあの人は、知らない世界側の人だった。お店に来た時とはまるで別人で。
それじゃあ、やっぱりあたしはーー
「……確かめなきゃ」
香の心にふつふつと怒りにも似た感情が湧き上がっていく。
優しい記憶だと思っていたものは、全部嘘だったかもしれないなんて、そんなものを抱えながらこの先過ごすなんて真平だと思った。
『忘れて。全部綺麗に』
あの声は誰だろう。
あの人の声ではなかった。
でもあたしの記憶の鍵は、今はあの人からしか辿れない。
息を一つ吸う。もうすぐ昼休みだ。その間に少し気持ちを落ち着けて、そうだ、ひかるにもきっと聞かれるだろうから、うまく話せるかな。
あれやこれやと考えを巡らせていると、気持ちがスーッと自然落ち着いてくる。
店内は談笑し合ったり、一人の時間をゆっくりと楽しんだり、それとは真逆で忙しなく料理に手をつけていったりと、それぞれの食事のスタイルを過ごしている。
そんな空間がやっぱりとても好きだった。
「あの人…そういえばあれから来ないな」
そう呟くと同時に、槇村さーん、交代。とバッグヤードから昼休みの合図の声が掛かかり、振り向きながら返事を返した。
「は? 今なんて? 香さん」
バッグヤードの奥の休憩部屋は、中央にでんと置かれた幅広の机と数脚のパイプ椅子と、畳が引かれた二畳ほどの小上がりになっている場所のみの、至って簡素な空間を成している。
「だからね、あたし、もしかして、や、ヤクザとかの、その……」
「…あのですね、香さん……」
呆れたようにひかるが返す。
「香さんがヤクザの愛人? ない! ないない! 絶対」
「…なんで言い切れるのよ?」
用意してきたお弁当の卵焼きを口にパクっと入れながら、ダシが効いただし巻きは我ながら美味しいわね。と、独りごちて二つ目を頬張る。
「雰囲気が」
「雰囲気が?」
「ないっていうか」
「なによそれ」
本気で悩んでるのに、とちょっとだけむくれ顔の香に、
「あーいう人たちって色気すごいじゃないですか? 多分。知らないけど」
「…あたしも知らないけど。色気ってなによ。あたしにないって言いたいの? ないけど……」
「ですよね」
「ですよねって! そりゃあそうだけど……」
やけ食いか、ばりに頰いっぱいに白米を詰め込む香の様子に、はああああと、ひかるがわざとらしくため息を吐く。
「そうじゃなくてですね、あの手の方たちってこう、なんていうか、放つ色気がですねーー」
「色気、色気って、どーせないですよーだ!」
「…香さん、ご飯粒飛んでる…」
大の男の弁当箱並みに、どでかい香の弁当箱とは対照的に、手のひらにも満たない大きさの、女の子らしい桜色の弁当箱をバンダナで包み直している。
「なによ、もう! 本気で悩んでたのに……」
「そうなんですか? とにかくそれはないですね」
包み終わった弁当箱をカバンの中に入れながら、ひかるが続ける。
「そうだなあ、どっちかというと香さんは夜の世界とかアングラとは無縁ぽいですよ。だってそうだったらきっと分かると思いますし。なんかこう、びびーっと?」
「そうなの?」
「だいたいこんだけ無防備なアングラ住人て、居たら居たでびっくりですけど。それにですね、何でよりにもよって、ヤクザの愛人? ない! ないです〜」
言葉尻は抑えきれない笑いと共に紡がれて、香の顔がますます剥れていく。違うと否定されるのは安心を伴うが、色気ゼロだと言われている気がしてなんだか面白くない。
「なんで、一部の記憶だけ抜けてるのかなあ……」
ひかるが天井を見上げながら呟く。
事情をかいつまんで話した。思い出した言葉の数々は話していない。まだ自身の中でさえ整理がついて居ないからだ。
「それ、あたしも知りたい……」
「まあとにかく、愛人の線は置いといて、現実的に考えるとですね」
「……」
「香さんは至って普通の女の子で、ちょっと普通よりはつよつよな女の子で、ああいう場面に場慣れしてる感じもしたけど、ただ単に絡まれやすいから慣れてるだけな気もするし、結論、そういうことです」
「???」
そういうことってどんな結論? とポカンと口が開く。全く分からないけど?
「今のまんまの香さんが香さんだと思うけどなあ……」
「ひかるちゃん……」
じんわりと温かいものが胸に染みていく。
「確かにあのイケメンさんが香さんの知り合いなら、ちょっと危険な感じがしたから一体どういう関係? とは思いますけど」
「そうだよね? なんだか違う世界の人みたいで……」
そう言いながら、自身の言葉に微かな違和感を感じた。
そうじゃない。違うなんて言わないで。
心の中に響いた否定の言葉は誰でもない自身の声だった。
違うって何が?
じゃあ教えてよ
「…今度お店に来た時に聞いてみる」
「うーん、来ない気もしますけど」
「…………」
「もし来なかったら二度と会えないかもしれないですよ」
繋がりはこの店だけだったのだから至極当然な意見だった。
立ち上がり、座っていた鉄パイプの椅子を、ひかるがきっちりと揃えて、壁の時計をチラリと見やる。
「大切なのは香さんがどうしたいか、だと思います」
どうしたいのかと聞かれれば、迷いなく答えられる。
知りたいんだ、と。
何も思い出さないままなら、そのままでいられたのかも知れない。
けれども、頭の中に蘇った言葉や、感覚や、残像はもう無かったことには出来なかった。
何故、優しい記憶だと思っていたのか知りたかった。
もしかしたら本当に優しい記憶しかないかもしれないと思いたかった。
以前にはなかった記憶の糸を辿りながら、大通りに面した歩道を歩いていく。
幼い頃から育った新宿の街は隅々までとはいかないが、ある程度の場所は把握できている。できてはいるが、それはあくまで自身が育った場所の周辺や関わりのある場所に限定されてくる。
初めは到底無理かも。と思っていた。けれどもあちらこちらと歩き回るうちに、記憶と符号する場所が一つ、また一つと増えていく。
花園神社も記憶の波間に浮かんできた。神社の階段の先にはゴールデン街もぼんやりと脳裏を掠った。そこで誰かと歩いていたような、そんな霞にも近いビジョンを思い出すように、それを繰り返しながら辿り着いたのは。
確信するかのように歩みが力強くなり、そうだ、ここの先にはーーと、少し先の場所に視線を移した。
「あ…あった……」
100メートルほど先の歩道の道端沿いにモダンな建物のそれがあった。ガラス張りの店内の様子はここからは伺えないが、間違いなくこの場所だと少しだけ足が震えた。
『いらっしゃい、香さん。あら? 今日は一緒じゃないの?』
『あー…、アレはいつものあれで。タハハ……』
『またあ!? いい加減呆れちゃう。香さんも香さんよ! 嫌なら嫌って言わなきゃ!』
『え? あ、あたしは別に!』
『香さん! ダメよ、素直にならなきゃ』
カランと勢いよくカウベルを鳴らしながら、店のドアを躊躇う事なく押し開ける。
「いらっしゃーーかおり…さん?」
止まっていた時が静かに動き出した気がした。
「美樹!」
静止する声にハッとした顔で、俯く横顔は、同性の香から見てもとても綺麗だと思った。泣きぼくろの上の瞳は視線が合わないままで、静かな沈黙が店の中を包み込む。
「お久しぶり…ですよ…ね?」
一粒の綺麗な雫が綺麗な人の瞳から溢れて頬を伝っていく。
もう平穏な場所には戻れないのかもしれない。
それでも知りたかった。
こんな風に涙を流させてしまう事に胸が痛んでも、それでも切に。
困ったように笑う香に視線を合わせて、堪えきれないように
「香さん!!」
そう叫ぶ声は、いつか聞いた声に思えた。
「はい」
温かい腕に包まれた。綺麗な人がびっくりするぐらいの素早さで駆け寄り、抱きしめられている。
温かいひだまりが確かにここにあったんだと、滲む涙の向こう側は、優しい温度で満ちていた。
、
気づけばひとつき以上経っていました🙏まだ書きかけですが一旦上げさせていただきたいと思います🙇♀️🙇♀️あとで加筆させて頂きたいと思います🙏🙇♀️🙇♀️
2022.2.22
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