キオク ミライ 記憶 未来の先は 5 (文   4.4加筆しました


あの日は空が泣いていた
泣いた空から落ちる雫はひどく冷たくて痛かった。
冷たいのは頬を流れ落ちる雫なのか、心なのか、それとも受けた仕打ちからなのか、霞が濃くなる視界や全てではもう何もわからなかった。



淹れ立てのコーヒーの香りが鼻腔をふわりと掠めていく。不意に浮上してくる自身の記憶のカケラに埋もれていきそうだった意識が優しく引き戻される。
「はい、どうぞ」
カチャッと微かな音とともに、湯気を纏いながら香の目の前に薄水色のカップが置かれた。
添えられた白い手がとても眩しく見えて、
「頂きます……」
そう言いながら、俯き加減に口に含む。
「美味しい……」
「ほんと? 嬉しい!」
本心から漏れた言葉に、綺麗な人が目尻を下げながら笑って、瞳を細めながら香を見つめた。
「あの…あたし、な、名前を…」
「名前? ああ、そうよね……。私の名前、覚えてない…わよね?」
「はい……ごめんなさい」
分からない事はとても失礼な気がして、香の体が小さくなる。
「やだ、香さんが謝る事じゃないわよ! だって全部ーー」
「美樹」
遮るように低い声が静かに響いた。
「美樹…さん?」
「!! ええ、そうよ、香さん。私は美樹。この人が私のパートナーのファルコンよ」
弾む声で隣の大男の方を見やり、また視線を戻す。期待が込められたようなその眼差しに、申し訳なさが加速して、ますます香の体は小さく丸まり、ぽつりと呟く。
「ええと……美樹、さんに、ファルコンさん?あたし……何にも覚えてなくて…」
「香さん……」
カップを両手で軽く握りしめて、口を結ぶ。店内は大通りに面したガラスから沢山の光が差し込んできている。明るいひだまりのようなこの場所で、こんな風にあたしは過ごしていた事があったのだろうかと過去の自身に想いを馳せる。
カップを持ち上げ、ゆっくりと口に注ぐ。
懐かしいようなそうではないような、結局は何も分からない。
「…あたしはここでこうやってあなたが淹れてくれるコーヒーを飲んでいたのかな……」
「……ええ。私だけじゃなく、この人もね」
「ファルコンさんも? そうなんだ……あたし、どうして忘れちゃったのかなあ…」
ぽろりと漏れた言葉に、美樹がはっと息を飲む。
「少しづつ…断片的にだけど頭の中を色んな声がするようになってきたんです。美樹さん、の声もしたんです。だから、ここに来てあなたの声を聞いた時にああ、なんだか懐かしいって思ったんです」
顔を上げて、香が笑う。
「あなたやファルコンさんがあたしの事を知っていてくれてよかった。あたしにこんな場所があったんだって、それがすごく嬉しいんです」
「香さん……」


希望という芽はきっと芽吹く季節を待っている気がした。僅かな光はいつか春を連れて来ると信じたいと思えた。


「…ねえ、香さん」
少しの間を挟んで、美樹が静かに問う。
「これからもこうやって私やファルコンが淹れるコーヒーを飲みに来てくれるかしら? 私達はそれだけで嬉しいのよ」
「いいんですか?」
「もちろん!」
思わず見惚れてしまうような弾けるような笑顔に、記憶を失くす前の自身を肯定された気がして、瞼の裏は熱を帯びていく。
「……嬉しいです」
今、声は震えていないだろうか。俯くと、前髪がはらりと落ちて、潤んだ瞳を隠す。
「香さん……」
心配気な声が胸に痛くて、「そ、そういえば」と、聞きたかった疑問に話題を移した。
「? 何かしら?」
「美樹さんやファルコンさんなら知ってる気がして。ええと…背が高くて、髪をこんな風に片方あげてる人なんですけど」
左手で左の前髪を掬いながら問う香に、美樹の動作が止まる。
「…どうしてそんな事を聞きたいの?」
さっきまでとは違う低い声のトーンに、躊躇いがちに香が言葉を続けていく。
「え?…それは……、何度か会ったことがあって、多分ですけどあたしの事を知っている風だったから……。名前も知らないから美樹さん達なら知ってるのかと思って」
「何度も!?……まさか、そんな……」
驚いた様子で問いかける美樹の様子は緊張感を含んでいて、その意味が分からず香の声は自然小さくなっていく。
「は、はい。でも会ったことがあるっていってもお店のお客さんだったり、絡まれてるところを偶然助けてもらったりして、ですけど。あ、お店っていうのはあたしが今働いてるカフェの事です」
「……偶然ね…」
美樹が眉を顰める。隣のファルコンは終始変わらない様子で雑用を淡々とこなしている。
「美樹さん?」
「ねえ、香さん、何か覚えてた事はあったの? その人のこと」
「? いいえ、全然」
首を振る香に、美樹がそう…と小さく呟く。
「あの、でもっ!」
「でも?」
「一つだけ覚えてるんです。まだ会ったこともない人だけど、その人の声や背中を……顔は分からないけど……多分あたし、その人がとても大切だったはずです」
じっと見つめる美樹の瞳はひどく悲し気で、漏れた言葉に香の瞳が丸くなる。
「…ごめんなさい、香さん……」
「美樹さん? どうして美樹さんが謝るんですか? あ、あたしが聞いちゃいけないことでも聞いたのならごめんなさい」
「違うの、違うのよ、香さん……」
「美樹さん……」
苦しそうに顔を歪める美樹の肩を傍に寄り添うようにファルコンがそっと引き寄せる。


ふわりと既視感が香の頭の中を通り過ぎていく。


『あなたに何があったからってバラバラになれる二人じゃないのよ!』

美樹の一途な想いは記憶の中で鮮やかに色を帯びて螺旋の様に回り出す。あたしはこんな場面をきっと何度も見てきたはずだと思った。

「あたし、今日は帰りますね。コーヒーとても美味しかったです。ありがとうございました。たくさん聞いちゃってごめんなさい」
スツールから立ち上がり、ぴょこんと頭を下げる。
お金、ここに置きますね。と硬貨を数枚カップの横にそっと置くと、入り口の方に歩き出す。
「待って! 香さん!」

不思議な空間だと思った。美樹の声に振り向きながらそう思う。美樹がいること。ファルコンという名の男がいること。そのどちらもが当たり前のように思える場所だと思えた。
「また、来てくれる? ううん、来て欲しい」
温かい言葉は胸を温かくしていく。
ドアノブに手を掛けながら、
「また来ます。美樹さん、ファルコンさん、ありがとう」
笑顔で応えた香に、美樹の顔がふわっと綻んだ。


カラン───


「美樹……いいのか?」
「…私は後悔してるわ。あの時のあの判断を。そして伝えてもあるもの。香さんが望んだ時には──って」
「だが……」
「約束を破ったのは冴羽さんの方でしょ!? もう二度と会わないって言ったのに。私は忠告したのよ。それなのに───」
美樹が唇を噛む。
「無理矢理閉じ込めた記憶なんてふとしたきっかけで溢れ出すかもしれないって。それでもそれを選んだのは冴羽さんで、私達だから! だったらどうして香さんの前に姿を見せるなんて事!」
「落ち着け、美樹。……何か理由があるのかもしれない」
「理由?」
抱かれた肩を振り払い、美樹が鋭い瞳を向ける。
「男って本当に勝手だわ! 理由? どんな理由なの? 勝手に決めて、何もかも忘れるように手離して、それで幸せになれると思ってる! でもどう? 改ざんされた記憶の所為であんなに混乱してる! 私は、私は───」
崩れ落ちていく体を支えるように、無言で抱き止めると、躊躇いながらも包み込む。
「ごめんなさい……ごめんなさい、香さん……」

腕の中の存在は体も心も震えている。

香さん。あなたに伝えなきゃいけないことがあるの
あの時、本当は───

夢から醒めるのをあなたが望むなら





『これが本当に香さんの為なの?』
『ああ、そうだ』
『……そう。でも冴羽さん、あなたがいくら拒んでも香さんが望む時は私はそちらを優先するわ。覚えておいて』
『…………』
『美樹』
『ファルコン。あなたがダメだって言っても、よ』

誰かの手で変えられた未来なんて、いつか自分の意思が必ず動き出すはずだから
私がそうだったように───

『私は私なりに香さんを守るわ』
誰にでもなく自身へと確認するように美樹が静かに呟いた。



カウベルを鳴らしながら開いたドアの向こう側には失くした世界があった。交わした言葉の一つ一つを頭の中で整理しながら、通りをゆっくりと歩いていく。
懐かしい。という感情は湧かなかったが、心地よさは余韻として残っている。
綺麗なあの人は美樹さんという名前で、隣に居たサングラスが特徴的な大きなあの人は、ファルコンさん。美樹さん、はあたしを見たらとても悲しそうな瞳をしていた。何故だろう。それからすぐに抱きしめてくれた。温かくて、心の何処かに小さな光が灯ったようだった。 
「結局名前も聞けなかったな……」
男の話が出た時の美樹の様子が気になった。張り詰めた空気は、好意とは正反対の感情が在るのだと香にも分かる程に伝わってきた。
「やっぱり色々危ない人なのかな?」
眉間を寄せて、腕を組む。ひかるちゃんは否定したけどきっとアレなのよ、だから美樹さん、も関わりたくないんじゃ──
想像は多大に膨らんでいく。香の頭の中では任侠映画の世界がぐるぐるとエンドレスで回り続け始めていく。


僅かに陽の光が路地裏に僅かに差し込んでいて、反射した光で色褪せたビールケースが淡く光っている。
何気なくそちらに視線を移した香の瞳の先には、仄暗い路地裏の無機質で雑多な空間が在るだけで、再度視線を戻そうとしながらも、ふと思い立ち路地裏に足を踏み入れていた。二歩、三歩と無意識に足を進めると、陽の光の届かない場所で、床に座り込み頭を垂れる男の姿が在った。
「え? 人?」
驚きと共にじっと見つめると、俯いて寝ている様子なのが直ぐに分かってほっと安堵する。
「でもなんでこんな所に?」
訝しそうに覗き込むが、ぐっすりと寝入っているのか気づく気配はない。どうしようかと思案していると、唐突に腕を掴まれた。
「香!?」
「え?……」
名を呼ばれた事に驚き、聞き覚えのある声に更に驚いて、顔を上げた男の顔に香の瞳が大きく見開かれる。

「あなたは……」

掴まれた腕は、加減をされていないように感じられるぐらいに強く痛みを伴った。
食い込んでくる指先から反射的に逃れようと腕を引くと、更に強い力に引かれる。
「痛っ!」
ピリッと走る痛みに堪らず漏れた言葉に、男が反応したかのように力が緩まる。解放されたと同時に香が警戒をしながら後ずさった。
腕の痛みと、何故こんな所に、と、どうしてこの人が、の様々が交差し、男を見つめる瞳には険しさが増していく。
「悪かった……痛めたのか?」
伸ばされた手の指先は赤く染まっていて、よく見ると頰にも同様に赤く血が滲んでいる。
「それ……」
腕の痛みよりもそちらが気になり問いかけると、「ああ、これか」となんでもない事のように面倒臭そうにのっそりと男が立ち上がった。
長身な男の丈ぐらいはある長いロングコートはあちこち綻んでいて、裂けたような箇所もある。言葉を発さない香をちらっと横目で見ながら、
「たいした事ないから気にするな」
「…でもそれ怪我してるんじゃない?」
コートに隠れた左腕の辺りにうっすらと滲む赤黒さを指摘されると、一転鋭い視線が香に向けられる。
「あまり人の事を詮索するのは感心できないな。特に俺みたいな男のことはな」
自嘲気味に笑う瞳は感情の色が見えずひどく冷たくて、それでも怖いという感情は湧いてはこなかった。
「俺みたいな男って何? もしかしてあなたヤクザなの?」
「はあ?……まあ、似たようなもんだな。俺の事はいいからさっさと帰るんだな」
「だけど、その怪我手当てしないと……」
「必要ない。かすり傷だ」
淡々とした言葉に香が眉を上げる。
「そんなことない。ちゃんと診てもらったら?」
「俺に関わるな」

その言葉に知らず体が動き、気づけば男の胸ぐらを両手で掴んでいた。先程強く掴まれた左腕に痛みが走る。一瞬顔を歪めるが、強い口調で言葉を放つ。
「あなたがどんな人でも関係ない。怪我した人を放っておけるわけないじゃない」
「……痛むんだろう? 見せてみろ」
ひんやりとした掌が手首に触れた。赤い指先は、頭上にある赤い電飾が陽の光を反射した光を受けて更に色濃く赤く見えて、香の瞳が動揺で揺れる。

冷えた掌に触れられると、そこから熱を帯びた気がして、意識の一部が攫われていく。

眩暈がした。
鼓膜の向こう側から声が聴こえた。


『何やってんのよ、こんな所で』

雨が降っている日だった。
赤い光があたしと誰かを照らしている。濡れた体に持ってきた傘を差し出した。傘から外れた肩や頭が雨に濡れていくが、そんなことは構わなかった。
目の前で俯いた男の頰には今みたいに血が滲んでいて、指先も赤く染まっている。

『…………』
目を逸らしたまま黙り込んだ姿に、いいようのない気持ちが込み上げてくる。
怒りでもなく、悲しみでもなく、多分これは安堵感だと思えた。

生きてる────

それだけでいいと思う気持ちは、胸の中に溢れるように広がっていた。

『……風邪引くわよ』
『そんなヤワじゃねーよ』
『なんだ、そんな事言えるぐらいなら大丈夫ね。ほら、帰るわよ』
『……放っとけよ』
『嫌よ。放っておかない。嫌だって言っても連れて帰るから』
『…お節介な奴……』
『そうよ。アニキに似たんだから当然じゃない』 

可愛くない言い方だって分かりすぎるぐらい分かっているけど、こんな言い方しかできないあたしの手から、ふわっと傘が男の手に移る。

『あ……』
『帰るんだろ? ほら、濡れるぞ』
いつの間にか横に立つ男がぶっきらぼうに傘を差し出してくる。
『うん……早く帰って傷の手当しなきゃね』
『こんなのかすり傷だってーの』
『ダメよ。ちゃんと見せなさいよ』
『はあ……兄妹揃ってほんとお節介だよな』

そう言いながら笑う顔に胸が締め付けられる。
差し出された傘に体を寄せると、肩を抱かれてより近くに引き寄せられた。
『……仕方ねーだろ? こうしないと濡れちまうぞ』
『あ……うん』
言葉は粗雑だが、含まれるものはひどく優しい。泣きたくなる想いを隠すように、呟く。
『傷、痛む?』
返答の代わりに髪をぐしゃりと撫ぜられて、掌の温かさを確かめるように瞳を閉じた。


眩暈がひどくなる。現実と記憶が入れ替わりで交差していく。

───雨、傘、赤い光、赤い血の色、頬の傷、
重なるものと重ならないものが入り混じった、
この光景をあたしは知っている───



「……どうして?」
不意に発した低い声に、訝しそうな顔をした男の顔が香の瞳に写り込む。
「ねえ、どうして?」

赤が舞う。記憶の中で。そして目の前の現実でも視界を色濃く染めていく。

「記憶の中のあなたは今と同じだった。雨の日。そう雨の日だったはず。分からないけど、覚えてないけど、あたしは確かにあなたに傘を差し出していた。あなたを探していた。あれはあたしだったし、あなただった。知ってるんでしょう? 覚えてるんだよね? 教えて! あたしは誰だったの? どうしてあなたはあの時も今もそんなふうに傷ついてるの? どうして─────」
感情のままにぶつかってくる香を、呆然とした顔で男が凝視する。
「───おまえっ? 記憶が?」
「記憶? やっぱりあたしのこの記憶は本当なの!?」
「それは…………」
男が黙り込む。
「あなたはアニキのことも知っていた。あたしやアニキとあなたはどんな関係だったの?」
「……どんな関係でもないさ。俺はお前やお前のアニキの事は知らない」
香が激しく首を振る。
「違う! そんな事ない! あなたは絶対にあたしを知ってるし、あたしもあなたを知っていた!」
「……夢だろ、全部」


『忘れて、全部綺麗に』


───あの声は───


掴まれた腕は、掌から伝わる体温を確かに感じている。同じだから。あの時感じた温かさと。
それでも上手く言葉が繋げずに、瞳を逸らさずにいる事しか出来なかった。
忘れて、とあたしに願ったあの声に囚われる。
夢だろ、と突き放したいなら、何故夢のままで居させてくれなかったのかと、穏やかに回っていた日常に現れた、非日常の存在に自身でも持て余すぐらいの感情をぶつけていく。
「優しい夢だと思ってた。そう思いたかった。だけど失くした記憶が時々現れて、あたしが忘れたあたしを連れてくるの。だから教えて欲しい! あなたがあたしを分かっていてもあたしはあなたを忘れているから。お願い───」

誰にも言えなかった想いが香の内側から溢れ出て、止まらない。
「香……」

指先の赤が白い腕を染めていく。
「雨……」
「雨?」
「今日は降ってなくてよかった。あの時みたいにあなたが濡れなくて済んだでしょう?」
「!……香、俺は……」


何かが胸を撫ぜる。何だろうかと耳に響く声にぼんやりと意識を傾けると、ああ、そうなんだと気付く。
懐かしい声だと初めて思えたから。
あたしはこの声さえ忘れていたんだと。
誰だか分からなかったあの声は───


『星が見たいな、三月の空』
『怪我が治ったらな』
『連れていってくれる?』
『……ああ』


『……ごめんな』
『どうして謝るの?謝らないで』
『……そうだな』
『狡いよ。そんなふうに言われたら何も言えないじゃない』

『香』


あの声は全部あなただったんだね。







2022.3.18
2022.4.4 追加

また後でもう少しお話を足させていただきます🙏🙇‍♀️

たくさんの大好きを。

CITYHUNTER(シティーハンター の二次創作で、イラストや時々漫画、たまには二次小説などをつらつらと置いている場所です。 その他、CH以外にも時々呟きます。 原作者様や公式関係者様には一切関係ありません。あくまで個人的な趣味の範囲のブログです(*´-`)

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