溺れる魚は息さえ忘れる (文
溺れる魚は息をする事も忘れるという
溺れ、溺れてこのままと
願う様が滑稽で、時に酷く残酷な言葉が舌をするりと滑り落ちていく
日常茶飯事。通常運転
切り抜けられるはずが、やけに焦燥感だけが増していく
待っていたのは予想外の、冷水さながらの言葉だった
「冴羽さん、右か左か選んで」
あまりに唐突で、いきなり何だ。と、口に含んだ少し苦めのコーヒーを思わずごくりと飲み込む。
「……なんだよ?」
あまりいい展開にならないであろう事は、その声色やヒシヒシと伝わる圧から否が応でも感じ取れる。
なによりもーー
ヒュンという音と共に、洒落にならない重さの掌が右頬に綺麗に打ち込まれる。
何故か、なんて理解できているからこそ、変わらぬ態度でと悪態が口を滑っていく。
「いってーな。なんだよ、いきなり!」
口の中がやたら苦い。鉄の味は、昔の記憶によくあった残像だ。くっ、と笑いが漏れた。
「笑ってるなんて随分余裕よね、冴羽さん。まだ足りないのかしら?」
綺麗に切り揃えられた黒い艶ややかな髪は小柄な顔によく似合う。問いかける瞳は怒りの色を隠さない。どうやら曖昧にやり過ごす事は現状無理のようだなとガシガシと乱雑に頭を掻いた。
アポなしの来訪者の香の友人は、潔さは美徳の一つだが、片側にだけ思い入れの比率が高すぎて時々厄介だ。
わかってるでしょ?と投げかけてくる視線が怖い。
「ねえ、冴羽さん、これ以上待たせるならもう返さないから」
「…………」
「あれから何日?物事には取り扱える時期ってあると思うの。その瞬間を全部逃していたら拗れるだけじゃ済まないんだから」
やけに空間が広く感じる。
この場所はこんな風にがらんどうだったのかと、問いかけられる言葉を耳に挟みながら、ぼんやりと視線を上に向けていると、ぴしゃりと鋭い言葉の音色が飛んだ。
「聞いてるの!?……もういいわ。一度だけじゃなくて、二度目も無下にするような男にあの子は絶対渡さないから!」
黒髪がくるりと弧を描く。怒りは限界を超えらたらしい様子で用はないとばかりに、去ろうとする白いロングコートの背に、ぽつりと混ぜた本音を落とす。
「…わからなくてさ」
ノブにかかろうとしていた白い手が止まる。少しだけ振り向き、訝しげな瞳を向けてくる。
「……なにを?」
「…アイツが何考えてるかってこと」
「何って、今更」
今更なんかじゃねーんだよと心の中で毒付くが言葉には乗せない。ここのところ同じ疑問ばかりがぐるぐると頭の中を行ったり来たりで、だから『今更』だなんて呆れた口調に、らしくなく胸が黒くざわめく。
『嫌っ!……ごめん、あたし…』
「やることやっといて、今更違いましたとか言い出すつもり?」
真っ赤なルージュが乗った唇を噛みながら、問われる。
「そうじゃなくて」
「じゃなくて?」
「嫌だって」
「何が?」
言葉の意味を真逆に受け取り、形の良い眉が跳ね上がる。彼女の思考には目の前の男が最低の類にしか映らないらしい。否定はしないが、言葉足らずなのは自覚があるゆえ、観念したようにため息を大きく吐く。
真冬に腕まくりをしたシャツ一枚の姿だが、寒さはまるで感じない。頬の火照りはどこから来るのか知らぬふりで流す。
煮え切らないように感じたのだろう。彼女の拳がギュウと強く握られ、爪先が薬指に食い込む。一触即発、瞳はさらに燃えている。
「冴羽さん! あなたって人はーーー」
「ま、待て待て! そうじゃなくてだな!」
「これ以上は待てないって何度言わせるつもり!? もう知らない! あの子は私が責任持って連れてーーー」
「だーーーっ!! 話を聞けって!」
「何の? 嫌って今言ったでしょ?!」
噛みつかれそうだ。人の想いは時に受け取るには重さが億劫で、できれば交わしたい。でも無理だろう。覚悟を決めろと面倒臭さを嫌う自身を少し端に追いやる。
「…アイツが、香が嫌だって言ったんだよ。嫌なもんを無理矢理ってわけにいかないだろ?」
「香が? 何を? 冴羽さん!」
「香から聞いたんじゃないのか?」
「聞いたわよ。正確には聞き出した、だけど。まあそれはいいのよ、どっちでも」
よくねーよ、と心の内で盛大にため息を落とす。多分に、香の言葉を脳内であらぬ方向に変換してやって来たのだろう。完全に渡す気なしの態度で挑まれると、メンタルのどこかが軽く、だけど確実にブローを喰らう。
俺って最強じゃなかったか? 今この瞬間、この場所に誰もいなければ即頭を抱えたい。
弱いな。あんなたった一言で、思考の全てが一度あの時吹っ飛んだ。
「香が嫌って言ったの? だから何を?」
できれば言いたくない。プライベートだ、プライベート。何で言わなきゃなんないんだ、覚悟はまたどこかにひらひら飛んでいく。「早く言いなさいよ」血を這うような低い声に、飛んだ覚悟はあっさり舞い戻る。
「そ、それはーー、お、俺だってせめて次は優しくしなきゃって、我慢に我慢を重ねて、それはそれは涙ぐましい努力をしながら、日々悶々としながら、それでもベストなタイミングをとーー」
「だから!! 何を? ぐちぐちと回りくどいわね。なんなのよ、はっきり言いなさいよ」
「…………」
「冴羽さん!!」
「わ、わかったよ! さ、最初は手加減できなくて、だから二回目はって、そういうことだよ」
「…どういう事よ。さっぱりわからないけど」
類友だよな、類友。そっち方面の疎さは似たもの同士かもしれない。察しろ。これ以上は羞恥の限界だ。ならば、できるだけ簡潔に。考えると噛みそうなのと、恥ずかしさで死にそうなので思考は飛ばす。
「一度目は抱き潰しちまったから、二回目は優しくって思って我慢してた。半月ぶりにようやく誘ったら嫌だって言われたんだよ。ごめん、ってな。俺にどうしろって」
「は?」
「んで、あーわかったよ、おまえが嫌ならそれでいい。元通りだなって言ったんだよ、俺が。
で、今現在、絵梨子さんちに居候中、だろ? 振られたの、オレは」
言いながら、投げつけられた言葉がまた蘇り、何度目か分からない自虐の心が広がっていく。あれは振られたんだろうな、そうだ振られたな。だよな。ヤバいな、また堕ちていきそうだ。
「バカじゃないの?」
冷ややかな声がバッサリと切り捨ててくる。
かさぶたにさえなっていない傷口に塩を塗り込むように、心底呆れた顔を向けてくる。
どうして俺の周りの女達はこんなに容赦なく、一様に香に甘いのか。
振られたのは俺なのに。
けれど、そこまでの行いを考えろとまたバッサリと切られそうなのは目に見えているから、全部飲み込む。
「あのね、冴羽さん。香はね、あなたが自分じゃ満足できないから、だから次を誘ってこないんだってずっと悩んでたの。可哀想なくらいどんどん自信を失くして、だから見ていられなくて私が無理矢理連れて行ったの。あ、悪いとは思ってないわよ? 当然だからね。香の心を守る為だもの」
「……振られたんじゃねーのかよ」
「冴羽さん! いつも自信ありすぎるぐらいのくせに、何なのそれ!? まさか、いじけて何にもリアクション起こせなかったの? 嘘でしょ? え? そこでずっと止まってたの?」
あー、そうだよ、そこですが。仏頂面で無言で軽く睨むと、有り得ないといった風に絵梨子が頭を振る。
「なんなのよ! お互い馬鹿みたいにすれ違って。何年同じこと繰り返してるのよ。はー、もう馬鹿みたい。私の苦悩の日々を返してよ」
「…苦悩っていうか、楽しんでたんじゃーー」
「ないわよっ! あんな香見てたら私だって一緒に泣きたくなったんだから! まさかこんな理由だなんて、違う意味で泣きたいわよ!」
俺だって…とか、誤魔化すようにぶつぶつと呟いていると、今日一番の冷ややかな視線が刺さる。
「ねえ…冴羽さん。あなた香の事なんて言って誘ったのよ」
「…何で言わなきゃいけないんだよ」
「いいから。このまま戻らなくていいの!?」
よくはないが、言いたくもない。言いたくはないが、香に触れたい。触れたい。ぐちゃぐちゃになるまでーーなんていうか、末期だなこれは。下手をするといつの間にか思考が口から滑り落ちそうだ。
「…いつも通りだよ。あんまり急に変わってもアイツも引くんじゃないかって、いつも通り、とりあえずヤッとくか。だった…かな。あんまり覚えてないな」
あんまりどころか、ほぼその辺の記憶は白紙だ。自身が放った言葉に関しては。香からの返答は一語一句しっかり覚えている。
「なに、それ……あなたってなんで香相手だとそうなるのよ。悪いけどそれ、仕方なく、って思われてるわよ。ううん、香、そう思ってるわよ。しかも言葉のチョイスが致命的すぎて香じゃなくても引くわよ。ほんと、なんて言うか……」
「…なんだよ」
「中学、ううん、小学生? そうそう、それね」
「だ、誰が小学生だ、誰が!」
「今ドキ、小学生だってもっとスマートなんじゃないの?」
「…言ってろ」
もう! 手間がかかるんだから。と呆れた中にも、ホッと安堵の表情を絵梨子が浮かべる。
緩んだ口角で柔らかく笑う。
「早く迎えに来てあげてね? いい? あと1日でも過ぎたら、私の周りにたーくさんいる顔も性格もハナマルの男性モデルや、カメラマンや、んー、そうね…あと、会社社長とかも居たわね。その中に香を放り込んじゃうわよ」
言われた意味を測り、チリと何処がが焼けつく。冗談じゃねーぞと沸き上がるものは殺意に似た何かで。
誰がが触れたなら
躊躇うことなく
そんな物騒な感情は肌に触れるまでは隠し通していたはずなのに、これは俺のものだと刻みつけたい衝動が日増しに高まり、誰一人として触れるなんて許さない。
「…冗談よ。顔、怖いわよ」
「…半分本気だろ?」
「半分…もう少し上だけどね」
やっぱり油断はできないなと、何食わぬ顔の絵梨子をチラリと見やる。
「香が、ね」
「ん?」
そう言いながら、ショルダーバッグから、ピンク色のチケットらしきものを取り出した。
「はい、これ」
「これは?」
「仕切り直し、ね。香を騙すみたいで怒られそうだけど、こうでもしなきゃ素直になれないでしょ、あなた達は。香がね、昨日私に言ったのよ。違う自分になれたらよかったのかな、って。ねえ、冴羽さん。あんな悲しい顔させないで。あんな悲しい言葉聞きたくない。自分じゃない自分なんて、香の性格だと後できっとまたあの時のように自己嫌悪になるだけよ」
あの時を指す意味に、二人の視線が交差する
くり返しはごめんなのは、俺だって同じだ。
「これは、今夜ある場所で開かれる仮面パーティーのチケット。こんな仕事してると、色々と変わり種の贈り物を頂くのよ。一夜を楽しんでみませんかって。誤解ないように言っときますけど、あくまで健全なパーティーよ。主催者の個人的趣味に走り過ぎてる感はあるけど……」
「…ここで二人で楽しめって? はっ、ごめんだね! それこそ繰り返すだけだろ」
甘い痛みと、いいようのない虚しさ。あんなものはもう要らない。馬鹿みたいに繰り返してどうする。
「違うわよ。そうじゃなくて、伝えるだけでいいのよ、きっと。知らないままのフリして終わったなら、それを上書きしてあげれば、そうすれば……」
「…変化ってやつか」
「小細工って言いたい? 実際そうだけど…でも、きっかけは必要でしょ? 本音が言えないなら言えるようにしてあげたいって思うから。だからーー……その後のことは冴羽さんに任せるわ。以前とは違うって、私信じるわよ? いい? 信じてるから」
最後の言葉は八割方は脅迫めいた感が否めないが、絵梨子なりの精一杯の気持ちが痛いほど伝わる。
以前の俺ならこんなモノに乗ったりはしなかっただろう。驚くぐらいにするりと言葉が口を突く。降参だ、全面降参。
「分かったよ、乗った」
「ありがとう。香には私から伝えるわ。とびきり綺麗にして送り出すから、冴羽さん出会いのシチュエーションから振られないでよ。計画狂っちゃう」
「だ〜れに言ってんだよ! 俺の本気をーー」
「はいはい。分かったから。じゃあね、頼んだわよ」
ひらひらとピンクの色を揺らしながら、お願いね、と手渡しされた紙切れを苦々しく見つめる。振られる気など一ミリもないが、最大限には仕上げていこうかと、クローゼットの中を思い浮かべていると、閉まりかけたリビングのドアの向こう側から、明るい声が響く。
「冴羽さん〜! 貴方の着る服も私に任せて。香に見合う、とびきり素敵なものを夕方までには届けてもらうから」
「……りょーかい」
あの日の仕切り直しは予想外の展開だが、素直になれないのはお互い様だろ、香?
溺れたのは肌恋しさだけからじゃない。
もう何年もずっとだったと今更気づいて、溺れるよりもタチが悪く、全部が欲しいと子供のように願う。
溺れるのなら
息をするのさえ忘れるのなら
「離さねーよ」
喉の奥がクッと鳴る。今夜は晴天だと付けっぱなしのテレビから機械的な情報が流れてくる。
健全な男女交際の真似事のように、今夜は星の話からでも始めようか。
『獠! 明日は晴れるみたいよ』
何日ぶりだろうか久しく聞いていないその声を攫いにと、ベランダの手摺りに凭れながらまだ見えない星空を見上げた。
2020.3.6
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