a wish 中編 (文
嫌な予感がした。
俗に言う第六感というモノで、外れる事など記憶にある限り無くて。ソレがやけに胸の中で蠢いていた。
「獠! 大変よ! 香さんが!」
滅多に動揺を見せない冴子が尖った声で叫ぶ。冴子からの仕事をこなすために、数日前から人里離れた山奥で缶詰状態の日々を過ごし、ターゲットの動きがやっと、との所で、帰る算段が付いたと内心安堵していたはずなのに。
「香? 何があった?」
心臓が煩く騒ぎだす。それを隠しながら発した言葉はやけに低く、冴子が唇を噛む。
「こっちはフェイクよ。やられたわ。私とあなたを足止めさせるためにーー香さんが! 連れて行かれたの」
「……どこにだ?」
「警察よ」
「!?」
流石に想定外だとばかりに獠が驚き瞳が開く。
「ごめんなさい……始めから狙いはあなたか私、いいえ、あなたと私二人共、なのかもしれない。気づかなかった私のミスよ」
冴子の顔が歪む。悔しさが色濃く滲み、右手で左腕を強く握る。獠は濁すように息を一つ吐いた。
「…いや、俺もだ。なんだか落ち着かない気がしたがさっさと終わらせたくてやり過ごしていた。こういう事か」
「早く香さんの所に帰りたくて…よね? ごめんなさい……」
自責の念が強まり眉間に眉を寄せる冴子に、肩をすくめて軽口で返す。
「ばーか、そんなんじゃねーよ。ここ、ろくなもんないだろ? 早く上手いもん食べてーの!」
「香さん、のでしょ」
「……お前ねえ…俺の優しさってモンをーー」
「……分かってるわよ。らしくなく気を使わせちゃったわね」
重い空気が幾分薄らぎ、それで? と獠が本題をさり気なく振った。
肌寒さがまだ残る季節はもうすぐ過ぎようとしている。ゆっくりと進んでいけばいいと思った二人の時間はこんな風にあっさりと覆されるんだと、見せぬ想いの中で刃を研ぐ。
「うちの人間が香さんを連れて行ったみたいなの。任意同行って建前らしいけど、何をするか正直分からない。居合せた私の後輩がこれは上が知っている事か? って連絡をくれたの」
「んで、それが香だったってわけか。よく分かったな?」
「だって有名だもの。香さん」
「あ?」
意外な答えに間の抜けた声が思わず出る。知らないの? の瞳で冴子が返してくる。
「……なんだよ、それ。何でアイツがお前んとこで有名なんだよ?」
「何言ってるの? うちだけじゃなくて新宿界隈だいたい知ってるんじゃないの? 有名だもの」
重ねて言うな。と知らぬ話に獠の顔が憮然となる。わかりやすく顔に出るのはこちらの話なのかと、冴子の顔に僅かに緊張が浮かぶ。
内心穏やかじゃないのは香が連れ去られた。という突発案件の方だと理解しているが、そちら側はいつもの顔を装うのを崩そうとしてはいない。
見せない分、きっとそれはーー
「暴力的で、いつもハンマー振り回してて、落ち着かない奴って?」
「いつも溌剌としてて、モデルみたいなスタイルで、時々ハンマー振り回してるとびきり可愛い子って」
軽口に乗る。これからの動きが予測できない分、とにかく早く帰らなければという思いをお互い見せないまま会話は進んでいく。けれど、行動は岐路に着けるように自然動き出しながら、だ。
「……そいつら、フィルターかかってねーか?」
「あのね……そんなこと言って。誰よりも知ってるくせに。素直になれないのも中年じゃ可愛くないわよ」
「だ、誰が中年だ! 俺は二十歳だってーの!!」
カチャリと撃鉄を起こす音が空間に鳴る。獠の瞳がすっと細まった。
「もういい加減その無理な設定やめたら?」
腕を組み冴子が一点を見つめる。
トリガーが引かれて、サイレンサーによって抑えられた銃声が軽く響く。少し離れた場所で黒い影が呻き声を上げながら倒れ込んだ。
「手間かけさせてくれやがって。こっちは片付いたぜ」
「…もう少し泳がせてから、のつもりだったけどこれが時間稼ぎなら、そこは目を瞑るしかないわね」
「ま、そういうことで」
「後始末は応援を呼んだからそっちに任せましょう。それより……獠!」
足早に急ぐ冴子に並ぶように駆けていく。仕事を放り出すような事はしない男だ。全部をやり遂げて去る姿の心中は計り知れない。
「冴子、鍵!」
見えなかった感情が顔を出す。流れるような仕草で手元を離れ、鍵が弧を描く。伸ばした掌で受け取ると、運転席に乗り込み鍵を差し込んだ。
「獠! 早く!」
「行くぞ!」
アクセルを全開に踏み込む。一瞬体が前後に揺られて、スピードはぐんぐん加速していく。間に合って、と冴子は願う。願えない男の代わりに、強く。遠くからサイレンの音が鳴り響き、確かめるように振り返り、また前を向いた。
「……まだ起きないか」
つまらなそうに男が呟き、反対側の椅子に腰掛けるとぐったりとした姿を一瞥する。
「ったく…早い事吐けばいいものを」
そう言いながら、床に落ちたハンドバッグに手を伸ばす。冴羽の痕跡はないかと無造作にまさぐる手が止まり、触れたものを取り出して声を漏らす。
「……ビンゴ。こりゃあ言い逃れできないよな」
口角がゆるりと上がる。切り札は手に入れた。しかもこの上ない最強のジョーカーだ。
「早く起きろよ」
物事にうまくいかない事はない。ある一定の地位を手に入れた自分なら尚更だ。邪魔なやつは全て排除してやる。黒い思惑に胸が躍りながら男が部屋を後にした。
意識が覚醒していく。それはぼんやりと、やがて明確に。香の脳裏に浮かんだのは、先刻までの不毛なやり取りの一部で、沈んでいた意識が根こそぎ引き上げられた。
右手首がズキズキと痛みを波打ち、左手をそっと添える。握られた痕跡がくっきりと跡を残していて、くしゃりと顔が歪む。嫌なのだ。痛むからではない。こういった類のものを一切見逃さず、それを多分に自責の念に変えてしまうであろう事が手に取るように分かるから。隠しても隠しても、優しさはどうしたって伝わる。また一ついらぬ想いをさせてしまうのかと、香の心が曇った。
灰色の部屋。窓が一つとドアが一つ。景色は変わらない。どれだけ時間が経ったのだろう。ハンドバッグを引き寄せ、中のスマホを取り出そうと開きかけるが、指先が止まり、思い直したようにパタンと閉じた。万が一ここで見つかってしまえばどう言い逃れすればいいのかわからないーー最悪を想定しながら、大きく息を吐く。できる事はなんだろう。最悪、あたし一人ならどうとでもなる。ならなくても、戸籍を持たない獠だけはこんな場所に晒すわけにはいかない。
カチャッという音と共に、扉が開き、閉じられた。見たくもない顔が作り物の笑顔を貼り付けて、ゆっくりと近づいてくる。
「目覚めたか? ああ、そんなに睨まないでくれるかな? 少しだけ手荒だったのは謝るよ」
「……少し? よく言うわ。 これ、傷害になるんじゃない?」
左手で右手首を包み込みながら、香が冷ややかに言い放つ。
「……君達に私を責める権利が? あるわけないよな。クズはクズらしく権力の下で大人しく平伏してろよ」
「あんた、やっぱりほんと最低ね」
「どうしてだ? 事実だろ。だからこそ賢くなれと言ってるんだよ。君が話してさえくれれば、新しい世界をあげるよ。せめて人並みらしく暮らせるようにな」
薄ら笑いを浮かべるこの男には、きっとどんな言葉も届かない。人を勝手な価値観で色付けしている。嫌悪感はどんどんと膨らんでいき、破裂しそうだ。
「……そんなのいらない。あなたにはわからない」
「分かろうなんて思わないし、分かりたくもないね。本当に君も可哀想な人だな。あの男もどうせロクな出生じゃないんだろ? そんな奴に騙されてるなんーー」
パシンッーー
派手な音が灰色の世界に混ざる。男が驚愕の表情で香を凝視し、頬を押さえている。右手首への負荷で声に出そうな痛みを伴った右手を、すうと香が下げて口を開く。
「やめて。あたしは騙されてなんかいないし、獠の事をそんな風に言わないで」
お願いだから、そんな風に言葉に乗せないで。何にも知らないくせに。獠がどうやって生きてきて、どんな想いをしていたか。あたしにも分かる事は少ししかないけれど、あなたなんかに穢させない。
言えない気持ちを瞳に宿して、男に真っ向から向かう。
「何故そう思う? 今だって君は置いてけぼりで、野上と二人きりだ。例え仕事だとしても大人の男女が何もないと思うのか?」
キリと胸が痛む。だけどそれは別問題だ。
「そんなことどうでもいい。あたしは何も知らないし、話す事はないってさっきからずっと言ってる」
「……質問を変えよう。君と冴羽は繋がりがある。それは確かだ」
「仕事上だけよ」
「仕事……、なんの仕事だ?」
「ただのアパートの管理人とその手伝い」
探られて困るラインが掴めず無難だろうと思える返答を返す。さっきとは違い落ち着いた様子の男に胸騒ぎを覚えた。
「君達の仕事に拳銃は必要なのかな?」
時間が止まる。
頭の中が気持ちが悪いくらいに揺れていく。
「どうした? 拳銃だろ? そんな物を何故君が持っている?」
ハンドバッグを差しながら、男が笑う。
敵意しか持たない人間が何も暴かないまま放置していたなんて、それに辿り着いていなかった自身の甘さにぎゅっと瞳を閉じ、拳を握りしめる。どんなに取り繕っても所持をしている理由にはきっとならない。
「…………」
「寄越せよ、それを。さあ!」
「知らない、何も」
「はっ! 馬鹿か!? そんな物が通ると思うか?」
「何を言ってるかわからない」
認めることもできずに香は同じ言葉を紡いでいく。
「お前が所持しているなら冴羽もだろう?
もしかすると野上からか? アイツから流されたものか?」
余波が広がっていく。潮時だと思った。このままじゃあ二人にまでーー香が瞬時で決意する。
「違う! 二人には関係ない」
「……なんだと?」
刺すような視線を受けるが、怯むことなく勝気な瞳を合わせる。
「いい加減にしろ! お前が! それを手に入れられるわけがないだろう!」
「なんとでもなるわよ。あんな街にいたら手に入れる方法なんてなんとでも」
「お前っーー!?」
右手を強引に引き寄せられるが、それでも顔色は変えずに真っ向に見据える。ブレない想いに男の顔色がみるみる変わっていく。掴む指先が熱く熱を持つ。
「なあ? いいのかよ? この右手に重い鎖を掛けても? お前があくまで二人を庇うなら、お前自身が罪人になるだけだ」
「ええ、そうね」
「!! 冴羽か!? 野上か!? 言え!!」
「……二人は何も知らないし、関係ない」
これは自身のミスだ。何もかも甘かった自身の。守りたいと願う気持ちはいつも空回りで、迷惑をかけてばかりでごめんね。
「馬鹿な奴だ!」
吐き捨てるように男が言う。
「馬鹿はあんたよ。こんな事してあんたもただじゃ済まない」
「なんだと?」
「何があるのか知らないけど、ここまであんたが二人にこだわるなんて、正義感だ、なんてそんな事じゃないはずよ。きっとあの二人はそれに辿り着く」
強い口調で発せられた言葉に男が揺らぐ。
「…何を知ってる?」
剥き出しの敵意が香自身に向かってくる。右手は離されていない。痛みで自然、涙が滲みそうになるが、すうと息を吸い込んでゆっくりと吐き出す。
「さあ…なに…かしら?」
「ただじゃ済まないぞ」
「それはこっちのセリフよ」
「……後悔するぞ。ただ頷けばいいんだ。冴羽と野上はーー」
「知らない」
右手が唐突に離され、壁に押し付けられる。生温かい吐息が首筋にかかり、反射的に顔を逸らした。顎を掬われ無理矢理に顔を向かされて、激しい感情を浴びせられる。
「いいから言えよ」
「知らない」
「言わないなら、言わせてやろうか? 俺が今ここで声を上げる。お前に拳銃を突きつけられたってな。どう取り繕っても事実はここに存在するから無駄だ。さあ、どうする? どう切り抜ける?」
「何が? 好きにしなさいよ」
左手も絡め取られ、縫い付けられる。身動きができない香の耳元で男が囁く。
「俺の何を知ってる?」
「さあ」
「冴羽と野上の繋がりは?」
「知らない」
男の顔が香の肩に覆い被さるように重なり、言えよ。と掠れた声が首筋を撫ぜる。
やめて! やめて! と心は叫ぶが、突き放す事は正解なのかと躊躇が行動を鈍くしていく。匂いも声も全部違う。こんなのは嫌だ。
「こんなところで色々暴かれたくないだろ?さっさと言えよ」
「知ら、ない」
バンッ!!
激しい音を立てて、閉ざされた扉が勢いよく開いた。
「香っ!」
聞こえた声はいつもいつも側に在ったその声だった。
「ダ…メ、獠……」
安堵感と共に、この場所に獠がいるリスクを思い、懇願のように声を投げかける。
張り詰めていた糸がプツリと切れるように香の体が重力に吸い取られるように落ちていく。男は呆然と見つめながら、香の体を手放し立ち尽くしている。
崩れ落ちていく体をふわりと両の手が掬う。
ああ、やっぱりあたしはこの腕の中がとても好きだと思った。
「香…待たせたな」
抱きとめられた胸元に柔らかな声が降る。
「獠…ここにいちゃ…ダメ」
手を伸ばそうと顔を上げると、黒い暗幕が視界を覆った。伸ばされた右手は力無くだらりと垂れ下がり、香の瞳の強い光が消えていく。
「香さん!」
「香っ!」
眠るように意識を手放した香を、頼む。と一言短く告げながら冴子に託すと、双璧の瞳が漆黒の黒に染まっていく。夜の帷が降りるように灰色の世界は闇に包まれた。
2020.5.2
また長くなってますがお付き合い頂きありがとうございます🙏ラストは連休中にアップできたらと思います🙏
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