a wish 後編 (文
例えば時計を巻き戻して、こんな目に遭わぬようにと腕の中に閉じ込めていても
廻る時間の中ではいつかはきっと変わらぬような出来事は起こるのかもしれない
背中合わせで落とし穴が潜む世界から、遠ざけたいと頭の中の冷静な部分はいつでも答えを突き付けているのに
,
この手の指先がいつも躊躇う
触れる事さえ躊躇われるのに
その名を幸せというならば
俺はきっともう手離せない
扉を開けて飛び込んできた光景に、全身に冷えたモノが駆け巡る。苦しそうに歪む顔。押さえつけられた手首。あり得ないくらいの距離感は思考の全てから温度を奪っていく。
充分だろ、と自身にコンマ数秒の間に問いかけながら、床に落ちていく香を受け止める。
「獠…ここにいちゃ…ダメ」
こんな時にまでどうして
言いようのない感情に揺さぶられて、抱きとめた腕の加減ができなくなっていきそうになり、懺悔の言葉と共に冴子に託すと目の前で戦慄の顔をした男に向かって薄い笑いを浮かべた。
「獠! ここではダメよ!」
背後から掛かる短い叫びに、へーへーと気のない返事を返す。
「なあ? おまえさ、何が目的だ?」
じりと間合いを詰めながら、男の頬を手の甲で軽く叩く。
「や、やめろ! 触るな!」
男が頬に触れる手を払おうと触れた瞬間、灰色の壁に長身の体が打ち付けられ、
「グアッ!!」
と呻き声を上げて床に倒れ込む。
「なにをっ!ーー!?」
言いかけた男の右手首を取り、折り畳むようにゆっくりと壊していく。
「う、うわあああっっ!!」
「お前が触れていいとこなんかどこにもねーんだよ」
「獠!!」
再度背から掛かる戒めの言葉に、わーってるよ。とブツブツ呟きながら、その手をスッと離して、床に転がるモノをしゃがみ込みながら黒い双璧で捕らえる。
「こ、こんな事をして…タダで済むと…」
「あー? そりゃこっちのセリフだな。お前さ、運がいいぜ。この程度で済むんだからな」
ゾクリと男の背を恐怖が這う。戯言ではないと語る双璧の瞳の黒い光に、喉元まで出かけた悪態が一瞬で飛散していく。
「……まあ、だいたい想像つくけどな。何企んでたかぐらい。今回の事さ、なんだか胸騒ぎがしてな、冴子の依頼の元を探ったらあんたの名前が出てきた。西新宿の件だけじゃない。色々片足突っ込み過ぎて、四方八方塞がり気味なんだろ? あんた。で、俺と冴子を脅して、警察とこっち側両方の火の粉から守ってもらおうって算段だったんだろ?」
「獠!? それって…」
香を抱えながら冴子が驚きの顔で問う。
「全部洗ってみるんだな。こいつの痕跡を。ボロボロ出てくるぜぇ! 西新宿の件は客としてだけじゃなくて、店側に加担もしていたはずだ」
「まさかっ!?」
「灯台下暗し……ってやつさ」
「……私を良くは思ってないだろうとは分かっていたんだけど、そこまで…とは思わなかったわ……話を聞く限り今回の事は、彼が単独で起こしたようね。一緒に同行した刑事が、香さんの叫び声も聞いたと言っていたの。この部屋は少し離れた場所にあるから、周りに誰もいないように計らう事もできるもの。盲点よね。まさかこんな使い方されるなんて」
瞳を伏せて香の顔を見つめながら、静かな怒りを揺らす。
「大方、俺とお前の弱みでも握るつもりで香を連れてきたんだろう。最悪、無理矢理にでも拘束すれば俺だけでも意のままに操れるだろう…ってな。ったく、随分舐められたモンだよな」
口調はおどけているが、冷えた空間の温度は変わらない。射抜くように獠が男を見やる。
「こういう奴は自分でボロを出すから、泳がすのが一番だと思って敢えて乗ってみたんだけどな……ここまでの予測はしてなかった俺のミスだ」
「獠……」
香の体を冴子が強く抱き込む。温かい。手首の跡に気付いて、形のいい眉が切なく下がっていく。
「……水くさいわよ。私にも黙ってるなんて」
抗議の声に、
「悪かったよ。だがまだ確証までは辿り着いていなかったから、曖昧なままじゃあ…な。そうだろ?」
そう返す獠に、そうね、と冴子がため息を落とす。
「だけど、こんな事して一体……」
「警察の得意分野だろ? 都合の悪い事は無かったことに、ってのは?」
「獠!!」
「だーかーらー、だな。それだよそ、れ」
「それ?」
指差す方に視線を移すと、男の胸元にボールペンが刺されている。小型でなんの変哲もないペンに首を傾げそうになりながら、はっとおどろいたように冴子の瞳が見開いた。
「獠……まさか、これ…?」
「ああ。よっぽど焦ってたんだな。こんな物まで使うなんてな」
「でも、どうして?」
「ああ?……こういう輩が考えそうな事……って言ったら一つだろ?」
「…! 都合の悪いことって、まさか……」
冴子の言葉に返答はしないまま、獠の掌が香の頬に触れる。
「なんとでもなるだろ? なんとでも、な」
「!?……させないわ、そんな事」
カツとハイヒールを鳴らしながら冴子が真っ直ぐに立ち上がる。
「の…がみ…」
顔を少し上げながら、男が途切れ途切れに名を呼ぶ。それを一瞥しながら腕を組み男を見下ろす。
「散々やってくれたわね。卑怯な手まで使って……私の部下まで巻き込んで。あなたがやった事全て調べさせてもらうわよ」
「くっ……お前たちこそ裏で繋がってるんだろ? 野上! お前こそ裏は真っ黒じゃないか!」
響く声にも冴子は顔色ひとつ変えない。男の胸に刺さるペンに視線を移すと、おもむろに「だ、そうよ? ねえ、なんの妄想かしら?」
と獠に振る。その言葉に面倒臭そうに首を鳴らしながら、獠が男の右手首を掴み、軽く内側に捻る。
「うっ!! なにを!」
男の抗議には、スルーを決め込み、涼しげな顔でニヤリと笑う。
「俺と冴子は単なる顔見知りで、裏だろうが表だろうが繋がっちゃいねーよ。ま、どう探ろうと構わないが無駄足踏むだけだぜ」
「なんだと! そんな馬鹿なことーーぐあっ!!」
男の右手首に指先が強く食い込んでいく。獠! と咎める声に、ほんと面倒だよな、としかめ面をしながら、渋々と男の手首の拘束を解く。
「あ、あれはどうだ! あんな物を持っているなんてどう言い訳したって逃げられないぞ!!」
「あん?」
「お前のパートナーが所持していた物だ! あれはお前か野上が渡したんじゃないのか!?」
獠の眉間に深く線が刻まれる。
「へえ……任意同行ってやつは、そんな事までする権限があるんだな? 職務乱用ってやつじゃないのか?」
「お、お前たちのようなこの街のクズなんかを法で守る義務なんかないだろ!」
「……クズねえ」
黒が深くなる。男から離れて部屋の隅に置かれていたハンドバッグを探り、黒い塊を取り出した。
「ほ、ほら見ろ! そいつだよ!」
無言のまま男に近付き、しゃがみ込むと額に先端をあてがい撃鉄を起こす。
「や、やめろっっ!!」
驚愕の顔で叫ぶ男を色をなくした双璧の瞳が見下ろし、躊躇いなくトリガーを引いた。
パン!
声を出すこともできずに、ワナワナと震える男の右手首の数センチ横で、小さな黄色の丸が跳ねる。
「!?」
「ざーんねん。もうちょい右だったか」
「もう! 獠! 悪い冗談よ」
「んなこと言ってもおまえ、こいつがあんまりびびってるからさあ」
「……嘘おっしゃい。香さん…の事蔑むような事は、でしょう?」
「……そんなんじゃねーよ」
獠がバツが悪そうに頭を掻く。事態を飲み込めず、震えながらも男が言葉を発する。
「ど、どう言う事だ! その銃は……」
「ん? これか? こいつはモデルガンさ。あらら〜? もしかして本物だと思った? まさか〜だよな?」
「あら? そんな訳あるわけないでしょ? 仮にも警察官よ。本物とモデルガンの違いがわからないなんて……まさか、ねえ?」
二人のやり取りを唖然とした顔で見ていた男だが、みるみる真っ赤になっていく。
「馬鹿な! 確かに本物だった! おまえっ!ーー」
カツンと再度額に黒い塊を押し当てられて、男が喉をごくりと鳴らす。
「この至近距離で気づかなかったぐらいだぜ? だろ?」
押し黙った男の額から先端を外して、口角をゆるりとあげる。
「モデルガンとはいえこの距離で撃っちまえば流血騒ぎモノだからな。オモチャも時に凶器に…ってな」
「ーー!? ち、違う! 俺は確かに!」
「あーもう、うるせーな。なあ、あんたがさっき言ったように俺がクズだってのは否定はしないが、香は違う。そこんとこわかんねーなら、オモチャを凶器にしてみせようか?」
こめかみがひりつく。ホームだというのに圧倒的なアウェイの中に放り出されたように、救いがない状況を肌で感じ、後退りして壁に塞がれる。恐怖は黒い塊に対してではなく、それを手に色のない瞳を向ける目の前の男に対してだ。
存在感で他者を圧倒する世界を持つ冴羽獠という男に対してだった。
そして男は初めて自身が後悔しても仕切れない判断ミスをした事を悟る。
体は硬直していく。震えが止まらない。こんな世界は知らない。こんな敗北も知らない。
暴かれる恐怖より、今この場所でこの男が目の前にいる恐怖に絶望すら覚えてこうべを垂れた。
「反論は……ないみたいだな」
「獠、もう行って。ここからは私に任せて、香さんを連れて早く!」
「……冴子」
「あなた達がいた方が色んな説明が必要になって面倒だわ。香さんは迎えが来たから帰したと報告するわ。私は私のやり方でこの男を裁かせて」
素っ気なさの裏にある多分な責任感が冴子の中心を揺らしているのだろう。
「……大丈夫か?」
「誰に言ってるのよ」
「……無理はするなよ」
「私やあなたを利用しようとした事、そして香さんを傷つけた事を身をもって後悔させてあげる。立場でもコネでも何でも使ってやるわよ」
普段なら絶対に使わないであろう制裁のやり方に、冴子の強い怒りが伝わり、獠が黙ったまま、冴子を見つめる。
俺が許せないように冴子も…だな
「とにかく、俺達のことは気にするな。自分の身を守れ」
「分かってるわよ。だからってあなた達が不利になることなんてしないから安心して」
「どーだか」
「あら? 信用ないのね。ま、いいわ、早く!」
「悪いな、冴子」
「謝らなくちゃいけないのは私の方よ……」
「違うな、今回は俺のミスだ」
「獠……」
呟く冴子の声を受けながら、抱きかかえた香を深く抱き込み灰色の部屋を足早に去っていく。
懺悔は降り止まない。
それでもーー
新宿警察署を抜け出して、青梅街道の反対側に折れると、見慣れた車がゆっくりと近付いてくる。
「乗って! 冴羽さん!」
ドアを開けながら、叫ぶ声に反応するように体を滑り込ませる。抱えた温もりは意識を手放したまま、腕の中に身を預けている。袖口から見える手首は赤い色が痛々しい。じっと見つめたまま、親指でそっと撫ぜた。
「すまないな、海坊主、美樹ちゃん」
「フン! お前の読みは当たっていたという訳か。警視庁に迎えに来いと聞いた時は、少しばかり驚いたがな」
「俺もそこは想定外さ。ありえない話じゃないのに、鈍ったかねえ、俺も」
盛大にため息をつく獠を横目に、左側へハンドルを切りながら、フン。と海坊主が鼻を鳴らす。
「読みは間違いなかった。俺に頼んだ件もお前が思っていた通りだ。あいつは警察官の立場を利用して裏側にまで足を突っ込みすぎていた。もう誰も奴の言う事は聞かんだろう……香は……眠っているようだな」
「ああ」
「すまんな、俺がもう少し気にかけていれば……」
小さく息を吐き、海坊主がハンドルを強く握る。
「なーに言ってんだよ。お前はお前の別件を抱えてただろうが」
「冴羽さん、私ももっと……」
美樹の言葉に、獠がかぶりを振る。
「なんで二人がそんな顔してんだよ。これは奴の行動が読み切れなかった俺のミスさ」
さらりと紡がれた言葉の意味に、海坊主は変わらぬ様子を崩さず、美樹は八の字に眉を下げる。
「冴羽さん、触れてあげていて。とても安心すると思うの」
手首の跡を見やりながら、美樹が言う。
「……ああ」
いつもの軽口は出ない。余裕がないのだろう。あんな場所でどれだけ気を張っていたのだろうかとズキリと胸のあたりが痛む。
けれど、それ以上にずっとーー
自責の念に駆られているだろうと思うと、次に掛ける言葉が見つからなかった。
触れてあげて
言葉に出さずに静かに願う。
何よりそれが一番癒されていくと思うから。
「…香さん、きっととても頑張ったのよね」
「……そうだな」
彼女らしい。でも無茶はやめてねと美樹が呟くと、ため息と共にぽつりと獠が漏らす。
「大人しくしてりゃあいいのにな」
「…それが香さんだもの。でも、まさかあの中でこんな事……。この国って法治国家じゃなかったのかしら?」
「基本的人権、ってやつか? そんなもの目の前の甘い汁に浸りきっちまえば、守ろうとなんかしない奴らもいるだろ。警察だって人間さ。イイオマワリサンばかりじゃないってことだ」
「…まあ、そうよね。それしにしたって、こんな……誰だか知らないけど張り倒してやりたいわ」
「おーこわっ。美樹ちゃんのパンチは容赦ないからなあ」
へらず口が戻ってくる。少しだけ和らいだ空気に、二センチほど下げられた窓の隙間から入り込む緩い風が追うように循環していく。
獠の右手は香の赤く腫れた手首を覆うように、すっぽりと包み込んでいる。美樹はそっと視線を外す。誰の目にも晒したくはないのかもしれない。そう独りごちながらシートに深く背を預けた。
「冴羽さん、それじゃあ」
「サンキュ、無理言ったな、この礼はまた今度な」
口を結んで美樹が首を振る。
「そんな事は気にしないで。それより、大丈夫だとは思うけど、痛みがまだ残っているかもしれないから付いていてあげてね」
「わーってるよ! ったく過保護だよなあ…」
「冴羽さん!」
美樹が抗議の声を上げるが、やんわりと海坊主が制す。
「放っておけ。相変わらず素直じゃない奴だ」
「なんだと!」
「顔に書いてるだろ? 心配だってな」
「お前、目ぇ見えねーだろうが!」
「それはどうだろうな?」
ニヤリと笑い、サングラスがきらりと光る海坊主のしたり顔に、天邪鬼の舵が振り切れていく。
「どうだろうも何も見えねーもんは見えないだろ!」
「俺ぐらいになると見えないものも見えるのさ」
「そんなわけあるか!」
「あるったらある! お前の情けない顔が見たくもないのに見えて厄介だ」
「俺だってお前の暑苦しい顔が視界に入って迷惑だよ!」
「二人ともこんな時にやめなさい!」
唾を飛ばしながら言い合う男二人の間に、本気のキツい雷が落ちる。
「あのね、怪我人がいるのよ。いい加減にしなさい」
男二人がゴクリと唾を飲む。威圧が肌にヒリつく。
「冴羽さんも冴羽さんなら、ファルコンもファルコンよ。全く男ってどうしてこう……じゃれ合いなら他所でやって」
「だ、誰がじゃれ合いーー」
声を上げた獠に、なにか? と言わんばかりの瞳の冷ややかさが突き刺さり、黙り込むしかなく、逃れるように明後日を向く。
「早く上がって香さんを休ませてあげて。ファルコン、帰るわよ」
「……ああ」
押し出すように、香を抱えた獠を車外に出すとあっという間に車は走り去っていく。
腕の中の存在はまだ目を覚ます気配はない。
軽いため息を一つ落とすと、一段目の階段に足をかけて上り始めた。タン、タンとゆっくりとリズムが刻まれる。獠の口元が不意に緩む。
安堵感が胸に広がっていく。腕の中は温かい。それと同時に、タン、とリズムが打ち込まれる度に言いようのない想いが押し寄せてくる。
想定外だから、に限らないだろう
例え想定内だとしても守り切れるかは別問題だ
吐けない弱音は常に身体の何処かに巣食っていて、最悪を渡せと赤い瞳を向けてくる。
今回はーーならば次は?
失くすことは恐怖だと、もうとっくに忘れていたはずなのに
「…お前はほんと、凄いよな……」
俺に世界の色を与えて、ヒトの感情を宿してくる。
上りきった足を止めて、視線を上げると目の前の無機質な扉の先は唯一の場所だと今更ながら感じる。右手をノブにかけて扉を開けると、居心地の良い馴染んだ空間が広がっている。ここは俺達の場所だ。
不思議と肩にのしかかった何かが解放されていき、安堵感は増していく。両足の靴を乱雑に脱ぎ捨てると、胸元で揺れる薄茶色の髪を掌で弄びながら、指先に絡まる髪先を柔らかに握った。
バサリーー
数枚の書類が無造作にテーブルの上に広げられ、獠が眉をひそめる。
「お前な、何イラついてんだよ」
「苛ついてなんかないわよ」
「よくいうぜ」
呆れたような顔でソファーに座ったまま獠がため息をつく。
「ため息をつきたいのはこっちよ。全くよくこんな好き勝手していた奴にうちの上が気づかなかったものね」
書類を指差しながら、苦々しげに冴子が息を吐く。胸の下で両手を組みながら怒りを滲ませている姿は、色気三割増しぐらいかと、これはこれで……と鼻の下が伸びそうになるが、緩む脳内を見透かしたようにピシャリと辛辣な言葉が飛ぶ。
「馬鹿みたいな顔してるわよ、獠」
「し、してねーよ! お前こそあんまり難しい顔してるとシワができるぞ。もう若くーー」
ヒュン
獠の左頬の数センチ程横を光る刃先が掠めていき、壁に小型ナイフが弾かれるように揺れながら突き刺さる。
「あ、あぶねーだろうが! コラ、冴子! お前ーー」
「何か言ったかしら? 次は外さないわよ」
抑えた声と不敵な笑みがアソコもここもキュッと縮み上がらせる。ハハ、と乾いた笑いが獠の口から漏れる。
「ま、まあ好き勝手やってたらしいからな。裏でも表でも、辿ればアイツから甘い汁のおこぼれを貰っていた奴らが、結構な数が出てくるだろ」
「分かってるわよ。絶対見つけ出してやるんだから」
「……お前さ、大丈夫なのか?」
伺うように尋ねる獠に、あら? と可笑しそうに冴子が笑う。
「あなたに心配されるなんてね。ご心配なく。あんまりにも罪科があり過ぎて、あの男の言い分なんて誰も信じないわ。香さんを連れてきた事自体に異論を示している若手達の証言も取れているし、そもそも私とあなたの繋がりを示すものはあなたの言う通り何もないもの。後は、ほんのちょっとお父様の立場とコネを借りたぐらいね」
「……お前、そういうの嫌いだろーが」
「うっるさいわね。嫌いとかなんとかそんなのどうでもいいわよ。今回だけは絶対許せないの。徹底的にやるだけよ」
冴子が言うとシャレにならないなと内心肩をすくめるが、止める理由もないワケで、そうかと曖昧に相槌を打つ。
「だいたいやり方が汚すぎるのよ! アレなに? 何なの? あんな物で文言取ろうなんて、卑怯以外の何者でもないじゃないの」
冴子が冷静さを欠くのは珍しい。獠自身は、やり方の汚さ自体には事欠くことなく触れて生きてきたので、特段湧き上がる感情は普段なら無いはずだが、今回は香相手だ。許すつもりも冴子の怒りを諌めるつもりも毛頭ない。
「卑怯はこの世界じゃ常套手段だが、選んだ相手が悪かったな。ま、アイツはもうこちら側でも血眼で探し出して口止めしたい存在になっちまっただろうから、四方八方塞がり…だろうけどな」
「自業自得よ」
「それで? アイツの悪事を告げ口しにきただけじゃないんだろう?」
獠と冴子の視線が絡む。叶わないわね、と呟きながら、見覚えのあるペンを目の前に差し出した。
「これに全部入ってるわ。まだ触りだけしか私も聞いてないの。一緒に確認してくれるかしら?」
「…………」
「何で俺が、なんて言わないでよ。あなたも聞くべきよ」
「……言わねーよ、何があったか俺も知りたいしな」
空白の時間を知りたいのは山々だが、抜かりなく追い詰められている感は否めない。
女狐め、と毒付きながら、早くしろよと右手をひらひらさせて促す。
冴子の白い指先が躊躇う事なくボタンを弾いた。
『だから! 知らないって言ってる!』
小一時間程の時間が過ぎ、窓の向こう側にはほんのりと灯りが灯り始める。もうすぐネオンの海に街が埋もれていくだろう。
香はまだ目覚めない。思う以上に体への疲労と心へのダメージが深い眠りを必要としているのかもしれない。先程聞いた香の叫び声を思い、フツと湧き上がる怒りのような感情を胸の内側に隠し、こちらをじっと見つめる冴子に向き合う。
「……強いわね、香さん」
「…強い、か……」
「獠?」
あれは強さなんだろうか。悲しい、も苦しい、も全部飲み込んで他人の事ばかりなあの真っ直ぐさは強さだけでは計れない。
「……あんなにひどいこと言われて、追い詰められて、それでもあなたや私を庇ってた」
「…………」
問いかけるような冴子の言葉に、あの男が執拗に香を痛めつけていた様子が脳内にリピートされていく。
「誤解させたままなんて私は嫌よ。ちゃんと説明させて」
「…いや、それは俺に任せろ。お前は気にするな」
「は? 気にするな、なんて無理に決まってるでしょ! これ以上余計な負担を香さんに掛けたくないのよ、分かってるの!? 獠!」
「わ、分かってるよ!……はあ……あいつも余計な事を……」
「何言ってるのよ、あなたが言えないなら私がーー」
「ま、待て待て! お前が入るとややこしくなる。頼むから黙ってろ」
焦ったように早口になる獠の声に、冴子がフッと瞳を細める。
「好きなのね」
「あ?」
「惚れてるのよね」
「はあ? 何言ってんだ、お前」
「だから、ちゃんとしなさいよ。きちんと言ってあげて」
冴子の思惑に、不貞腐れたような顔で獠が頭をガシガシと掻く。
「……お前さ、来る前に全部聞いてきたんだろ? ったく、なんでまたこんな茶番みたいな事……」
「あら、なんの事?」
「冴子、お前なあ…!」
「…私言ったわよね? 何でもするって。こうでもしないとあなたまた香さんに甘えるでしょう? 言わないと伝わらないこともあるのよ。分かってくれる、なんて思い上がりよ」
流石長い付き合いだなと、内心舌を巻く。見透かされている事に居心地の悪さだけが膨らんでいく。
「…簡単じゃねーんだよ」
「言い訳ね。散々あなたとの馬鹿みたいなやり取りを楽しんできた私が言えた義理じゃないけど、今回は別。言葉は必要よ」
「……俺に説教したくて、わざわざ一緒に聞かせたんだろ?」
全身から不快感を漂わせる獠を一瞥すると、軽い口調で冴子が言葉を繋ぐ。
「何を言ってるか分からないけど」
「フン! お前の考えなんか分かってるっつーの!」
「あなたこそ、いつの間に用意していたのよ。アレ」
「……何言ってるのか分かんねーな」
「とぼけても無駄よ。あの馬鹿男は騙せても私には通用しないわよ」
斜め上から見下ろしてくる顔をチラと横目で見やると、頬にかかる黒髪の間から切れ長の瞳が怪しく光る。思わずチッと舌打ちを打つ。
「やだね〜、これだからデキる女ってのは」
「褒め言葉かしら? これでもあんな場面で冷静にあんな事をやってのけるあなたに感心してるんだけど」
「…そりゃどうも」
「槇村の銃は?」
冴子の声が低く響く。
「すぐに戻したさ。あの場をやり過ごせればそれでいいからな」
「そう……」
獠に背を向け、窓際に移動するとカーテンに手を掛けながら、灯り始めたネオンの色の波をじっと見つめている。
「あなた、また余計な事を考えてるのかと思ったわ」
「…………」
揺れていたのは事実だ。だがもうそこは選択肢にはない。けれどそれを伝える気も、口にするつもりもなかった。
「返したなら、それでいいの。私の取り越し苦労ね、忘れて。…でもどうしてあんなモノを?」
「香が連れて行かれた場所が場所だ。それに相手もな。まず一番にマズい事はなんだと思い当たるのが香の銃だろ? それで念のために、な」
「だからって咄嗟に手元にあったって言うの?」
冴子の問いに、肩をすくめながら獠が答える。
「いつもは持ち歩いてなんてないさ。ただ、今回は初めからずっと嫌な予感がしてな。万が一の為に持って行ってたんだよ」
「……野生のカン、かしらね?」
「さあね。どーだか」
言いながら、ソファに背を預けて、ぼんやりと天井を見上げる。
「……とにかく今回の事は私に任せて。ねえ、獠、あなたが言っていた、なんとでもなる。ってこれの事よね?」
書類の横に転がるボールペンを視線で示す。
「ああ。なんとでも、だろ? 都合が良いように編集しちまえば、香や、俺やお前をハメるなんてわけないからな。だからこそ香の言葉を引き出したかったんだろう」
「……だからあんな酷い事までして…許せない……」
済んだ事、で終われない、禍根を残したあの男の未来を思うと同情さえ覚える。だが痛みを与えられた分だけきっちり回収はさせてもらうけどな、と喉元がクツと鳴る。
それを見逃す冴子ではない。無言でこちらを見ながら、忠告を寄越す。
「気持ちはわかるけど、話せる程度にはしておいて。亡骸なんていらないわよ」
「……お前こそ、法の中にいる身だ。ほどほどにな」
「分かってるわよ。私、もう行くわね。これは私が処分しておくから。香さん、お大事にね……」
窓際を離れてソファの横に立つと、ボールペンを拾い上げて、ハンドバッグの中に仕舞い込み、リビングのドアノブに手を掛ける。
「獠」
「あん?」
ドアの向こう側から、不意に冴子の声が飛んでくる。
「香さん、あなたの事を言われる事だけは我慢出来なかったみたいね。声が違ったもの。どうしてもそれだけは感情を失くせなかったのね……もちろん、気付いてるわよね?」
「…………」
沈黙が続き、振り向こうとはしない獠の背を視界の端で一瞬捉えながら、じゃあね、と冴子が立ち去っていく。
遅れてパタンと閉まったドアに向かい、分かってるさ、と小さく呟き、軽く右手を握りしめた。
眠りの中で見る夢はせめてこんな世界とは無縁であって欲しいと願う気持ちは本心の一つで。
規則正しく上下する胸元は緩やかな動きを繰り返している。それを目にするだけで、掌の先まで不思議と温かくなっていく。
ベッドの端に座りながら、眠る香の額に触れる。ヒヤリとした感触に一瞬不安が過るが、じわりと伝わる生温かさに自然目元が緩むのが分かる。
生の色が薄い気がして心許なかった気持ちが薄れていく。いつから俺はこんなにも。
「良いとこ全部持っていくよな、お前は」
ブル、ブル、と枕元に置かれた香の携帯が小刻みに揺れて、淡い光を放つ。画面に表示された名前とメッセージに獠の眉が不穏に釣り上がる。
『 ひろき おーい香さん、じゃがいもいるー? 』
この場にそぐわない間の抜けた文に、余計に腹立たしさが募り、手を伸ばして携帯を取ると、慣れた手つきで画面を何度かタップさせると、無造作にベッドの端に放り投げた。
「おまえさあ、どこでいったい何してんだよ」
日常の予想外までは踏み込む理由がないよな、と深いため息をつく。
先刻、機械越しに聞いた香の俺を想う感情の塊は、均等に誰にでも分け与えられるものなのだろうかと、疑心さえ生まれていく。
「くそっ! もうめんどくせーよ!」
ジャガイモ男がきっかけなんて笑えるが、この衝動的な想いは今更止められない。
触れていてあげて
美樹の言葉を自分都合に解釈して、そうだよな、と起こさぬようにとそろりと隣に滑り込む。
規則正しく上下に波打つ胸がすぐそこに在って、口角が上がる。右手首を包み込みながら、瞼をゆっくりと閉じた。
「ぎ、ぎゃあああああ!」
どっぷりと夜を纏った部屋に、つんざくような叫びが響き渡る。
まあ、そうくるよな、そう思いながら片目を開けると、ベッドに座り込み、口をパクパクさせながら、こちらを指さす真っ赤な顔をした香が頭から湯気を立てている。
左手は小刻みに震えて、涙目のその様は加虐心を煽り立てて、腰の辺りから背中を熱いものが駆け上がるが、ゴクリと唾を飲み込みやり過ごす。
視覚的にヤバいので目を逸らして、なんだよ、と普段通りの声で答えるが、香の声は可哀想なくらいに動揺で震えが止まらない。
「な、な、な、なんであんたがここにいるのよ! あ、あたし? どうしてここにいるの?」
「……おまえさあ、落ち着けって」
体勢を横向きにしながら、頬杖をつき軽く欠伸をする。
「お、お、落ち着けって! い、一緒にね、寝てたの!?」
「そうなるよな」
「!? ね、寝てたって!」
「いや、そっちの寝るじゃなくてな」
「は!? そっちのって何?」
ニヤニヤした男の顔に、何かを気づき驚いて瞳を見開くと、あわあわと自身の体を両手で何度も確認して、心底ホッとしたように息を吐いた。
「よ、よかった〜、ちゃんと着てる」
「だから言ったろ? そっちじゃないってーー」
言葉の終わりと同時のタイミングで、ガンと10トンハンマーが獠の顔面にクリーンヒットする。予想外の不意打ちに、まともに食らった顔を覆いながら、
「い、いってえ! 何すんだ! 香!」
涙目で獠が睨みつける。
「何するんだはこっちのセリフよ! なんであたしのベッドにあんたが寝てるのよ! し、しかもなんか重いって目が覚めたらあんたのぶっとい腕が乗っかってるし! なんなのよ!」
乗っかってる、ってなあ、アレは抱きしめてる。だろうと香の解釈の相違点に口を尖らせるが、そんな甘い出来事に変換できない香の心中はよっぽど拗れてるよな、と拗れに拗れまくった男が自嘲気味に笑う。
「……何笑ってんのよ」
「おまえ、腕、大丈夫か?」
問いには答えず、右手首に視線を落とす。
「え?」
獠の言葉に困惑の表情を浮かべるが、すぐに気付き、弾かれたように右手首を左手で押さえる。
「こ、これは……」
「隠すなって」
どの道無理な事は分かっていたが、早々に気づかれた事に、しゅんと頭を垂れて、ごめんねと小さく呟く。
「どうしてお前が謝るんだよ」
「だって……あたしがここに居るのは獠が助けてくれたからでしょう? また迷惑かけちゃったなって…」
「なんで迷惑なんだ? 助けに行くのは当たり前だろ?」
香が首を振る。
「あたしがあんな場所に着いていかなきゃよかったのよ。駄目ね…こんなんじゃーー」
香の視界が不意に暗くなる。何? そう思った瞬間、体にかかる重みと共にベッドに背が落ちていた。
獠の匂いだと気付いた。閉じ込められているのは腕の中で、何故だか二人でベッドに沈んでいる。香が息を飲む。暗闇の中で鼓動だけが速くなっていく。右手首を温もりが包み込む。痛むか? と、問うくぐもった声に、大丈夫だと伝えたくて精一杯腕の中で再度首を振る。
「……気付いてたんだ」
「俺が気付かないわけないだろ? あんな場所でよく一人で頑張ったな」
降りてくる声の優しさに涙が溢れそうになる。
一人でとか、痛みとか、そんな事なんかより、もっとずっと、獠がいなくなるかもしれない事が怖かった。よかった。そう言いながら腕の中で震える香の言葉は、また自身の事はどこかに置き忘れている。
馬鹿だな、と声には出さずに、代わりに香の頭をくしゃくしゃと撫ぜながら、身体を少し起こして真下の薄茶色の瞳を覗き込む。
「た、大した事ないの。ちょっと言い返したら、思いの外強く掴まれちゃって。アイツ、ほんと最低!」
「……ふーん……」
慣れない至近距離に香の瞳はあちらこちらに彷徨っている。
「……アイツは?」
「んー? 冴子が今取り調べ中。余罪がワンサカあるみたいだな」
「……そう」
香の顔が暗く曇る。敢えて促す事はせずに次の言葉を待った。
「ねえ、獠……」
「なんだよ?」
「あのね…その……冴子さん何か言ってなかった? あの男の事」
おずおずと伺うように尋ねる香の額を軽く弾きながら獠が笑う。
「いんや、別に。訳分からない事ばかり喚いたらしいが、誰も相手にしねーよ。警察の立場を利用して裏社会と繋がってた奴の言葉なんてな」
「ほ、ほんとに? そうなの?」
「ああ。お前が連れていかれるような事はないさ」
「そんなのどうでもいい。あたしはーー」
真っ直ぐな瞳が黒い双璧を射抜く。
その次に紡がれる言葉をお互い分かっている。
堪えられずに香の丸い瞳から涙の球がとめどなく落ちていく。よかった、またそう言うと声を上げて泣く。そこに含まれる感情の全ては、こんな俺には相応しくない。それでもその理性を飛び越えたくて、もういいだろ? と懺悔を胸にずっと触れたかった存在に手を伸ばす。
「獠?」
再び降りてきた男の重みに、香が困惑の表情を浮かべる。
「ん?」
「な、何?」
「……お前と同じ。ここに居るんだな、って確認」
「!!」
息を飲む音が聞こえてくる。なんで…と掠れるような声で、涙の幕を張った瞳はゆらゆらと揺れている。
「だから同じだって言ったろ? 何度も言わせんな」
指先で丸い瞳の端を掬う。また一つ涙の粒が落ちてくる。
「あ、あたしのせいで獠が居なくなったら、どうしようってーー」
泣きじゃくる声が胸の芯に、切々と届く。
震える手を掴み、額を寄せて渇きにさえ似た想いをぶつける。
「居なくなるわけないだろ」
「……うん」
「香」
「何?」
「…いや、いい」
香が紡がない言葉は知らぬふりでいいと思う。あの男の卑怯な手口など香は知らなくていい。
あの場で起こった事をお前が伝えたくないのなら、いくらでもそれに付き合ってやる。
ただ、俺が忘れないだけだ。
「獠……あっちの仕事は終わったの?」
「あれからすぐにな」
うん…と言葉尻が小さくなる香に、おまえさあ、と冴子からの宿題を切り出す。
「何誤解してるか知らんが、冴子は俺をこき使っるだけだっつーの! 知ってるか? アイツ今でも槇ちゃんの写真を後生大事に持ち歩いてるんだぜ」
「え!? そ、そうなの?」
「そうそう。 意外と乙女なやつだよな」
冴子の角が目に浮かぶ。説明しろとは言われたが、暴露するなとは言われなかったよなと、まあいいだろ、と一人勝手に解釈をする。
「そっか……」
分かりやすく安堵する香に、ばーかと今度は口にしながらぎゅうと強く抱きしめる。
香の体がカチンと瞬時に硬直する。
「りょ、りょ、獠! これ何?」
「あ?……あのさ、香チャン、いちいち説明が要るのか? マジかよ……」
「だ、だって!」
パニくる香の耳元で、抱き締めてんの。と囁けば、みるみる真っ赤に染まる耳や、頬や、首筋が堪らなく愛おしくなるが、加虐心がむくりと頭を出して、香の携帯を指差し口を開く。
「香、いい忘れてたが、ジャガイモLINE来てたぞ」
「は? なにそれ? ジャガイモ?」
ええ? とアタフタしながら、獠の腕を抜け出して、香が携帯を手に取り、画面を指でなぞる。
「ん? え!? ええっ!? ちょ、獠! 何これ、何で勝手に返信してんのよ!」
携帯を持つ香の右手がワナワナと震えている。
あ、これは怪我のせいじゃないよなと、内心ヒヤリとするが何気無い風を装う。
「嘘は言ってないぞ」
「そうじゃなくて!! なんなのよ、これ!」
目の前に突きつけられた画面には、先程自身が打った文面が淡い光の中映し出されている。
「…だから嘘は言ってないだろうが」
「そういうことじゃない! この文、何で!?」
「あー? 隣で今寝てるから無理だ。諦めろ。だろ?」
「やめてっ!! 読まなくていいから!」
「うるせーなあ……だいたいな、なんだよそれ? 誰だよ」
「え? 向こうの角のその先のホストクラブのひろきくんだけど? ほら、獠だって会ったことあるでしょ?」
誰だよ、それ? もっこりちゃんならともかく、男の顔なんていちいち覚えてねーし、いつの間に連絡先教えてんだ。ぶつぶつ言いながら、ジト目で香を見ると、ぽかんとアホみたいな顔してこっちを見ている。
暗闇の中、スマホの画面の光りが香の顔を青白く照らして、白い指先がやけになまめかしい。
「……せっかくの食材、もらい損ねちゃったじゃない」
「…そんなの、俺がいくらでも買ってやるよ」
「…………ねえ、獠、もしかしてーー」
躊躇いがちに問いかける声に頬がカッと熱くなる。
視線を落とし、一つ息を深く吐く。降参だ。その全部が煽ってくるせいだと、言い訳しながらゆっくりと香を二人だけの世界に沈めていく。
鼻先を香のそれに近づける。
「ち、近いんだけど……」
ゼロの距離感に香の羞恥心が悲鳴を上げる。
「慣れろよ」
「ひっ!……」
色気なんてカケラもない声なのに、駆け上がるようにはやる気持ちだけが増していく。
頼むから、何処にも行ってくれるな
ゼロから更にと乞うように、唇を重ねる。
失くした距離の甘さに酔いしれて、甘い熱が体中を侵していく。
『獠は汚れてなんかない!』
香の言葉が木霊する。多分お前は気付いていない。汚れていないワケがないだろう? 見せないものが多過ぎて、それでもこの手だけは離せない。
「…いいのかよ……」
捨てたはずの弱気が顔を出す。
「…………」
「俺といるとお前は……」
あんな目にまた遭うかもしれない。
バカ。
迷いを断つように真下からアルトの声がする。
「何が何でも、でしょう? 一緒に生きるって…獠が言ってくれたのよ?」
そう言って抱きしめられる。
体も心も。強さも、弱さも、見せたことのない仄暗さまで全部を。
「香……」
「あたしは…もうきっとこのままなんだろうって思ってた。でも……獠が望んでくれるなら、それなら……」
「香」
「あんたみたいにはできないかもしれないけど、それでもあたしはあたしで絶対守るから。守りたいのよ、足らないけど! 悔しいぐらいに足りないことばかりだけど、でも! あたしはーー」
想いは叫びとなって、矢のように絶え間なく突き刺さっていく。
もういい。わかったからそれ以上言うなと、瞳を閉じて強く強く腕の中に閉じ込めながら、深く口付けを落としていく。
ベッドの軋む音に、香の体が軽く抵抗してくるが、構うことなくより深く重なる。
こんな時間をあとどれぐらい超えていけるのだろう。香の腕が辿々しく背中に回される。肯定の合図だと受け取り、「俺は望んでたよ、もうずっと、な」そう伝えると、これ以上ないくらいに綺麗に花開くような笑顔を手に入れた。
fin
2021.5.22
最後が思いの外長くなりましたが、ここまでお付き合い下さり本当にありがとうございます🙏
こんな可能性もあるかなあ、、から書き始めたお話ですが、書いていたら最後がどんどん長くなっていつもの事ですが、終わらない、、となってました🥲お話書くのはとても好きですが、引き出しがとても少ないので、以前のお話と言い回しや表現が被っているところがあるかもで一つ一つ確かめる余力もないためごめんなさいです🙏いつかお話をゆっくり全部見返していけたらと思っています🙇
描きかけのものも仕上げていけたらいいなと思います🙏できるかな?でもちゃんと終わりたいな😋 またあとで少し手直しするかもしれませんが、(なんだか題名がしっくりきてません🥲 読んでくださって本当にありがとうございました(*´∇`*)✨
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