消えた青空
ある日あたしは落とし物をした。
目に見えるものではないけれど。
触れることもできないものだけど。
すとん。と抜け落ちるように、心の中から消えていった。
何故だろう
それは突然に訪れた
ふわふわと頭の中が自分ではないみたいに
今までしこりになっていたものが、
浮かんでは失くなっていく気がする。
辛いことではなかった。
むしろ気持ちが晴れていった。
この感覚はいったいなんなんだろう
見上げた空はやけに青く、見たこともない色をしていた。
「香さん、今年のバレンタインはどうするの?よかったらお店が終わった後ここで一緒に作らない?」
急激な寒波の到来でここ数日一気に冷え込みが増し、寒い寒いと呟きながら店に駆け込んできた香に、淹れ立てのコーヒーを手渡しながら美樹が訪ねた。
うん?とやや不思議そうな顔をしながら、おいし。と頬を緩める香の僅かな違和感に、美樹の眉が僅かに上がった。
いつもの彼女なら先程の提案に何かしらのリアクションがあるはずだ。
目の前の彼女は特に返事を返すでもなく、どこか遠くを見つめる瞳で、ぼんやりと頬杖をついている。
なんだろう。この違和感。
もしかしたら聞こえなかったのかしら?と、
ねえ、と香の顔を覗き込みながら瞳の奥を探る。
「香さん?あのね、バレンタイン、ここで、一緒に、作らない?」
どこか上の空の香の反応を見ながら、一語一語ゆっくりと紡いでみる。
「バレンタイン?ここで?あ、うん・・・ありがとう。でもね、この前デパートに行った時にたくさん買いだめしちゃって・・今年はそれにしようかなあって。美樹さん、残念だけど。ごめんね。」
本当に申し訳なさそうにしゅんと俯き加減で、胸の前で両手でごめんのポーズをする様子に、美樹の口元が思わず緩む。
香に自覚は無いのだろうが、庇護欲をかき立てる天性のソレに美樹ならず、彼女の夫までも含めもう随分前から絶対的な味方の立ち位置は変わらない。
特に香の想い人であるあの男に関する件では、誰がなんと言おうと丸ごとまるっと、いつでも全面的に香側だ。
美樹は時々本気で思う。
たまには放っておけばいいと。
なんならしばらく自由にしてきていいのよ、香さん。と。
だってひどいじゃない、散々待たせて、思わせぶりな事ばかりして、でも気づかないふりまでして、一体あの人香さんのことどうしたいのよ!と結婚式が終わって怪我が完治ししばらくした後、夫にやるせない想いをぶつけた。
わかっている。あの男がひどく臆病なことくらい。こと香に関しては異常なくらいに。
それは美樹自身が生きてきた環境と重なり、更に何重にも過酷で残酷な過去を抱えるゆえからの葛藤なのだとは理解はできる。
でも理解するという事と根っこの感情とは別なのだ。
泣き出しそうな顔をしたり、寂しいのを隠すためにわざと明るく振る舞ったりする様子を目にする度に、ふつりふつりとお腹の底から怒りの感情が湧いてくる。
特に奥多摩の出来事以降はそれに拍車がかかっている。
夫からは愛の告白をしていたと簡潔な言葉でしか聞けなかったから、店にやってきた香からの報告を待った。実際は誘導尋問ばりに香の口を開かすように持っていったのだけれど、幸せそうにゆっくりゆっくりと言葉を繋げる彼女はとても綺麗で。
流石に上手くまとまるだろうと思ってから早や二ヶ月は過ぎもうすぐ三ヶ月めに突入する。
いくらなんでも。と思う。
月日が過ぎるのに比例して、香の顔から幸せの色は消えていき、曇りがちになっていった表情の変化になす術もないまま願うことしかできなかった。
どうか幸せにと。
だから、せめてきっかけになればいいと思った。素直になれない二人にスパイス的にイベントに便乗してでもその先の関係に進めればと。
えっと・・あの・・ごめんね?と言いながら、口に手を当てて何やら考え込んでいる美樹をカウンター越しに下から見上げる。
「どうして香さんが謝るのよ。急だったのはこちらなんだから。気にしないで。」
どこまでもお人好しな彼女に極力気を使わせないようにと、違和感の正体が測れないまま、それはそうとと本題を切り出す。
「じゃあ、冴羽さんへのチョコもそこで一緒に買ったのね。それとも冴羽さんだけ別にもう手作りしてるとか?」
きっと沢山沢山悩みながらお店の前を行ったり来たりしながら買ったのかしら?あ、手作りなら甘い物が苦手なはずだから、チョコとは違う何かかしら?と楽しげな様子の美樹を見つめ、う〜ん?と香が首を傾げながら口を開く。
「獠?獠の分は買ってないけど?手作りも今年はないない。あたしなんかあげなくたって沢山貰うだろうし、今年からはもういいかなーって・・思うんだケド・・・やっぱマズいかな?パートナーだし一応日頃のお礼みたいな形は必要なのかな?」
何故だか小声で囁くように耳元に問いかける香には含むマイナスの色が全く感じられない。
「は??」
ちょっと待って。と美樹は軽く混乱する。
さらっと言った香の言葉は無理をしている風でもなくごくごく自然に漏れた会話だった。
「香さん?今年は冴羽さんにはあげないの?」
「んーいいかなあ・・アイツ甘いの苦手だしね。でも仕事のパートナーとしてあげないのは礼儀としてどうなのかなあって。」
「礼儀?」
「うん?そうだけど。どうして?」
違和感が膨れ上がる。
くるくると自身の髪を指で弄びながら、親しき中にも礼儀ありだけど苦手なモノあげてまではなあ・・と呟く仕事のパートナー目線のみの香に何故だかわからない焦りの感情が、心の奥底をひやりと撫ぜる。
カラカラーーン
勢いよく開いたドアと共にカウベルの音が店内に鳴り響き、美樹と香が振り向いた方向から、「みっきちゃ〜ん!!りょーちゃんとフリンしまーー」
と、飛び込んできた大男の言葉は最後まで発せられることなく、瞬殺でハンマーの下敷きになり、呻き声に変わった。
流石。慣れたもので、下手をすればコンマ1秒を切る勢いで繰り出された、店内に存在感ありすぎぐらいに横たわる、香専用とご丁寧に書かれた物体も通常運転よね。と美樹は一人頷く。
ならば。と。
「香さん、ありがとう。」
「ん?いーの、いーの。パートナーとして当然のことだもの。美樹さんには海坊主さんがいるのに獠のやつったら。」
「・・・・?」
まただ。また違和感。
「ファルコンがいるから?・・・ねえ、香さん、今更なんだけどハンマーの基準って・・?」
ほんと今更だ。案の定、へ?と怒りが消えて、困惑顔の香がぱちぱちと瞳を瞬かせながら、これのこと?とどでかい物体を指差している。
「そう、それ。」
と美樹が頷く。
相変わらず件の男は埋まったままだ。
「どうしたの?美樹さん。まあ、いいけど・・これはこのもっこり虫を退治するための武器・・じゃあなくて!道具で・・。」
「ええ、で、基準ね。」
さらりと聞きたい本丸を促す。
「基準?え、え〜と・・今みたいに決まった人がいるのに手を出そうとする場合や、それから明らかに嫌がったり困ったりしている場合・・かなあ・・・」
「うんうん。」
「後は仕事の評判に関わるから依頼人にさっきみたいなことしてたら基本出しちゃうけど・・」
「けど?」
「相手が嫌がってない場合はそこは自由だから基本出しちゃダメだよね。獠もそう言ってたし。」
やっぱり・・・
感じていた違和感の正体に美樹がため息をつきながら、
「・・ねえ、冴羽さん。」
といつの間にか二人のやりとりを尻目にスツールに腰掛けて、頬杖をつきながら幾分か不貞腐れ気味を隠さない男に無言の圧をかける。
「一体全体どういうこと?」
隣であーすっきりした。と晴れた顔をしながら残っていたコーヒーをくいと飲み干す香に聞こえぬように、囁くように問うた。
「・・・なにが?」
「なにがって・・香さん、どうしちゃったのよ。」
「・・いつも通りだろ?」
「どこが!?」
険しくなる美樹の声に、香が思わず左隣に目線を移す。
「どうしたの?美樹さん?」
「・・冴羽さん、香さんからね、今年はあなた宛のチョコは礼儀として必要なのかどうか聞かれたんだけどどう思う?」
「み、美樹さん??」
慌てた様子の香があたふたと美樹と獠を交互に見ながら視線を泳がせていく。
「いいから。だって知りたかったんでしょ?丁度いい機会よ。本人に聞いた方が早いわ。」
表情は笑顔なのに、美樹の瞳は一切笑ってはいない。
「そ、そうなんだけど・・」
チラチラと獠の様子を伺いながら、ピリピリとした二人の間の雰囲気に気圧され気味に、香が冷めたコーヒーを両手に挟み込み、頭を少し垂れる。
「どうなの?冴羽さん?」
「・・べっつに必要ないんでない?おれ甘いもの苦手だし。そもそも抱え切れないぐらい別でもらえるし。」
「ふ〜ん・・それ本心かしら?」
「なんでおれが嘘言わなきゃなんねーんだよ。」
間違いなく不貞腐れている。美樹は目の前の男の変化に内心ほくそ笑む。
ダダ漏れなんですけど。
隠そうとしなくなったのか、はたまたそんな余裕すらないぐらいなのかは定かではないが、終始不機嫌気味なのは間違いなく香の変化に感づいているからだろう。
「ですって?香さん。」
あえて彼女に話を振る。意地悪な気持ちからでは断じてない。目の前の男への日々の集積した思いからなどでは断じてないハズだ。
香の反応は思いの外薄く、
「そっかあ、うん。わかった。要らないものもらったって獠も困るよね。あ!でも、お店の女の子たちにもらったものはちゃんと食べてあげなさいよ。きっと一生懸命選んだうと思うから。いい?」
と、自分のチョコが拒否されたことをさして気に止める風もなく、獠がもらってくるであろう大量のチョコの心配が優先のようで、たまには自分でお返し選んできなさいよと頬を膨らませながら伝える姿に、余計なお世話なんだよ。と獠が顔を背ける。
「で?香さん、明日は予定ないの?街の人たちに配り終わったら、ちょっと寄って欲しいなあ。なんて。私ね甘いものはあんまり得意じゃないからアドバイス欲しくって。」
もしかしたら素直になれないだけ?と
僅かな可能性をかけて美樹が片目を瞑り、香にね?とオネガイゴトを仕掛けてみる。
人がいい香なら断れないはずだ。
本心を隠しているのなら、明日強引にでもチョコを一緒に作る流れに持っていけばいい。
欲しいなら欲しいって言えばいいのに。
ねえ、自分で気づいていないの?
ポーカーフェイスなんてどこかに忘れてきてるってコト
「・・ごめんなさい、美樹さん。それが、その・・先約があって。多分遅くなるかも・・だから明日は来れないの。ごめんなさい。」
ごめんね。と再度言いながら香が眉をハの字に下げる。
「ううん。いいのよ、そりゃそうよね。香さんにも特別に渡したい人の一人や二人いるわよね〜。気にしないで。」
特別に。から特に声のトーンをわざとらしいぐらいにあげて、ちらりと顔をグルンと背けたままの男を見やる。その表情はこちらからは伺えない。
困ったように更に眉尻を下げながら曖昧に香が笑う。
否定がないことに驚くが、それは多分そういうことなのだろう。と深く探る気持ちにはなれなかった。
考えてみればそうなのだ。
愛想尽かしたって不思議ではない。或いは迷っている?香の言葉や態度からは、当て付けで誰かと会うような雰囲気や、投げやりなところは少しも感じられない。
ごく自然なのだ。
いつもと変わらない。
ただ一点、いつもいつも溢れるぐらいだった、誰かさんへの熱量が消えているのを除けば。
「楽しんできてね。」
「もう、美樹さんたら。あたしとなんかじゃ楽しいのかどうかわからないけど・・」
えへ。と笑う香は年相応よりも随分幼く見えて、同性の美樹でさえ、思わずキュンとハートに矢が刺さる。だからこーいうとこ!
可愛い・・・
ほわん。となる美樹に
「伝言板見に行ってくるね。御馳走さま。ありがとう、美樹さん。明日のことごめんね。
あ、獠!ナンパもほどほどにしときなさいよね。」
とカウンターにカチャリと小銭を置きながら、決して目を合わそうとしない男にジト目で釘を刺す。
「・・うるせーよ。そんなのおれの勝手。今日はこれからデートの約束してるから帰らないかもな〜。メシいらねえぞ。」
一瞬、香の瞳が揺れたように見えたが、直ぐに呆れ顔になり、ため息を落としながらくるりとドアの方に歩いて行く。
「あっそ。まあご飯いらないなら楽でいいけど・・何時になっても鍵だけはちゃんと掛けてね。あんた時々開けっぱなしなんだから。」
そう告げると、またね。と片手を上げていつもの笑顔で去っていった。
カランカランと鳴るカウベルの向こう側に見える背中はあっという間に小さくなっていく。
後に残された二人の間に重い空気が漂う。
「んじゃあ、ごっそーさん、美樹ちゃん、ツケといてくれーーー」
早々に逃げ出そうとする男の言葉を遮り、首根っこをぐいと掴み引き戻す。
「どーいうこと?冴羽さん。」
「知らねーって言ってるだろ!さっき言っただろ?おれこれからデートなんだけど。」
喚く男を一瞥する。だから?とばかりに。
絶対零度程に凍りつくような視線に獠の口元が引きつる。
「どうせそんな人いないんでしょ?香さんに対抗して当て付けみたいにして、なにやってんのよ。」
「ち、ちっげーよ!!ほんとにーーー」
「まあ、そこどーでもいいんだけど。ほんとどーでもいいんだけど、香さんにとってはどーでもよくなかったハズなんだけど。
でもあれね、あれはきっととうとう愛想尽かされた感じよね。
とうとうっていうか、やっぱりっていうか、庇ってあげられる要素が一つもないのが申し訳ないけど。でも大丈夫?冴羽さん?」
「・・最後にとってつけたように心配してるフリするのやめてくれマスカ?」
ピクピクとこめかみに青筋を浮かべながら、
はあと大きなため息をつくと、ガシガシと頭を掻く男の口からクソっと小さく本音が漏れた。
「・・・大事にしないからよ。」
「おれなりにはしてたつもりだけど・・でも実際どう伝えていいかわかんねーんだよ。」
瞳を閉じてまた一つため息を落とす。
こんなにも弱さを素直に見せるなんて、随分と追い詰められているらしい。
「・・ため息ばかりしてると幸せが逃げちゃうわよ。」
困ったように美樹が笑う。
「もう逃げてる・・のかもな。まあ、それもいいさ。女なんていくらでもいるからな。なにも好き好んであんな凶暴ーー」
パンと乾いた音とともに、獠の顔が右に揺れた。
加減なく打たれた頬は美樹の本気の怒りだ。
「それ、本気で言ってるならあなたを軽蔑するけど。」
本音ではないことなど分かっている。
けれど口から漏れた時点で、美樹の大切な人を貶める刃となっていることが許せない。
本音かどうかなんて関係ない。
傷つける言葉を吐くことでしか自身を守っていけない男の弱さに今は無性に腹が立っていた。
あなたはいつもそう。
自尊心を守るために嘘で固めていく。
優しい嘘なのかもしれない。
でもあなたの気持ちの振り幅に、揺られ揺られて前に後ろに揺れ続けた彼女の心の摩耗が
今になって巡り巡ってきたのかもしれない
「・・本気さ。おれはいつだってな。」
瞳の奥に闇が揺れた気がした。
「そう・・それならそれでいいわ。香さんが失くしたものはいまの彼女にとっては必要だから失くしたのかもしれない。私はいいのよ。香さんが幸せならそれで。」
それでいい。だけど本当は。
どうしようもなく捻くれているこの男が、それでも美樹は好きだった。ただ単純に人としてシンプルに。
だからこそ悲しい結末なんて一欠片も望んではいない。
望んではいないんだけど・・
誰に向けるでもなく、まるで独り言のように美樹が言葉を続けていく。
「正直、私、押してばかりだったから、引く。って分からないんだけど、どっちも引いてばかりで、それじゃあ絡まるものも絡まらないわよね。」
「心が疲れてるのかも。の人に押してみて〜なんて無茶ぶりできないから、じゃあどっちがって話よね。ね?」
「・・・・・」
「だけど結局は本人の気持ち次第だから、私にできることは温かいコーヒーを出してあげることぐらいなのかも。」
「・・美樹ちゃんには敵わないよなあ。」
先程までの闇から一転、降参。とばかりに、
口惜しげに眉間を寄せ、柔らかに獠が笑った。
それにはあえて応えずに、無言のまま空いたカップに温かい液体を注ぎ込む。
緩やかな円を描き、揺れる液体を肩の力が抜けたように静かに獠が見つめている。
「これでもね、一応心配してるんだから。」
「・・わかってるさ。」
角が取れた獠の本質はきっと案外寡黙なのかもしれない。美樹はそう思う。
「ねえ、冴羽さん。何があったの?いつから?」
「・・・違和感を感じたのはひと月前ぐらいかもう少し前くらいだな。その前だったからかどうなのかは実際おれにはわかんねーんだよ。」
こめかみの辺りを強く押しながら、疲れた顔を隠さずに無防備に気持ちを吐露する。
重症ね。どっちも。
だからあの時さっさとまとまっておけば良かったのに意気地なしなんだから!と心の中で毒づいたのは一ミリも出さずに、
「済んだことは仕方ないわよ。わからないこともね。だけど香さんが見失ってるもの、このまま失くしたままでいいの?誰と会うのか知らないけど、行かせていいの?今の香さんならそこから何か始まってしまってもおかしくないんだから。」
そう告げる。どうか届いて。と願いを込めて。
「おれにそんな権利ないだろ?どうしろってんだよ。」
「権利なんてそんなもの私にだって無かったわよ?私はただどうしても諦められなかっただけ。それだけよ。」
クッと獠が喉の奥を鳴らす。
「すげー愛の告白。海ちゃんが聞いたらゆでダコもんだな?」
「あら?私は毎日似たようなことを伝えてるわよ。言葉って大切だもの。言霊って言葉があるぐらいだもの。日本人にとっては特に・・かもね。」
美樹も獠も日本人であるだろうという不確かな情報でしか自分のアイデンティティを持ち得ていない。
けれども確証は無くとも自分の中に日本人としての血が流れているのであろうことは、ここ日本に来てからより深く感じている。
「言霊ねえ・・・」
「そ。だって嬉しいことを言われたらやっぱり嬉しいし、酷いことを言われたら心が悲しくなるでしょ?あとは、そうね・・・すごく強い気持ちは言霊って言うよりむしろ刃よね。ねえ、本当に心当たりはないの?」
美樹の言葉に僅かに視線を上にずらし、何かを言いかけてやめたその変化を美樹は見逃さなかった。
「あるのね?」
「あるっていうか、なんていうか・・」
途端しどろもどろになりバツが悪そうに、更に視線を合わさない様子に、逃さないわよ。とばかりに、カウンターからぐいと身を乗り出した。
「ぜ〜んぶ説明してくれる?冴羽さん。」
キス寸前まで近づいた顔だが、間に流れるモノには甘い雰囲気など一切ない。
「さ・え・ば・さ・ん?」
「わ、わかったよ!!多分なんだけど・・な・・」
いつもの日常。
いつも過ぎて変わらない日常。
変わらないということはまるで時が逆回りしているようだった。
奥多摩で獠が伝えてくれた言葉で心が温かくなれた。
ここからきっと始まるんだって期待した。
全部が終わって帰路に着いた時もドキドキが止まらなかった。心地いいドキドキだった。
アパートに帰ってリビングに入った時に、近づいてくる獠の掌に心臓が一つ跳ねた。
くしゃりと撫でられて、お疲れさん。と少しの間見つめられた後、早く休めよ。と背を押された。
ぽつん。と何故だか一人ぼっちの気がした。
浮かれていたのは自分だけなんだと、いつもと変わらない会話に、跳ねた心臓がキュッと痛かった。
それからしばらく期待とやっぱり変わらないんだ。という気持ちを行ったり来たりしながら、日常が過ぎていった。
その間に依頼が来て、いつものように解決した後、今まで散々繰り返し見てきた光景が視界に飛び込んできた。
獠の胸の中に飛びこんでいく依頼人。
違っていたのは、自身の感情だった。
視界の先がぼんやりと霞むように見えて、はっきりとは形を成していないように思えた。
なんだろうと思った。
痛むことも跳ねることもなく、胸の鼓動は一律で穏やかだ。
何かを失くすということは案外悪いものでもないのかもしれない。
失くしたものは分からないけれど。
深く考える事を手放せば、心は晴れ間が見えてきた。
それから数日後、街でナンパに繰り出す獠に出会った。
ああ、まただな。
とまた視界がぼんやりと霞む。
日常を変えるのが怖かったから、ハンマーは通常運転で繰り出していたけれど、そこに何も感じなかった。感じないままハンマーを振り回していたから、いつからか苦痛に感じるようになった。だってこんなものが何故必要なのかわからない。
こんなものを振り回さなくても日常はゆっくりと回っていくし、パートナーとしての関係に支障だってない。
そう思えてきた。
「うわお!まさかのあいちゃん?こんな所で会うなんて、運命感じちゃうなあ。」
弾んだ声が鼓膜に響く。
「あ〜ら、それ本気?運命感じてくれてるなんて嬉しいわあ。ね、今からお店なの。同伴お願いできないかな〜?ね?」
霞がますます濃くなり、何も映さなくなったからその後のことは覚えていないけれど、気づけば歌舞伎町の喧騒を抜けて、街の外れのアスファルトの上に立ち尽くしていた。
ふと顔を上げると先には石段の階段が夕焼けに照らされながら、少し赤く色づいている。
ああ、あの先は花園神社だなと赤い夕日を眺めながら、どれだけの時間ここに居たのかと、記憶を探るが上手く思い出せない。
「運命って、なんだろ・・」
ぽとりぽとりと何かが落ちては消えていく。
もらった言葉も抱き寄せられた感覚も、もう思い出せないぐらい遠くに消えていく。
「寒い・・帰ろう。」
冷え切った体をのそりと動かし、家路へと歩き出した香の背中越しに、
「ねえ、あなたが香さん?」
と声が降ってきた。
好意とは程遠い肩越しからも感じる、マイナスの温度に億劫さを隠さず香が振り向くと、
艶やかな長い黒髪の持ち主が、挑むような視線で品定めでもするように、香をじっと見つめている。
まただ・・・
こんな事だってもう幾度となく経験してきた。
あなたなんか。
どうしてこんな。
私の方がずっと。
獠はいつだってどこか線を引いているけれど、どうにかしたくてどうにもならなかった彼女達の気持ちが、こちらに向いてくることも珍しくはなかった。
今までなら悔しくて悲しくて負けたくなくて、だからその分仕事では役に立ちたくて、必死で背中を追いかけていた。
だけど今日は彼女が何を言っているのか断片的にしか聞こえてこない。
あの頃とか、優しかった、とか、そんな事あたしに言われてもとは思うけど、胸は痛まないし跳ねたりもしないから、
「ごめんなさい、帰らなくちゃ。」
と無意味な空間から逃げ出そうと歩みを踏み出せば、彼女の纏う空気が一変した。
「あなたが居なかったら、きっと私の方を向いてくれるのに。」
「あたし・・?」
「そうよ。あたしねあの頃冴羽さんに救われたの。優しかったのよ、とっても。私を大切にしてくれた。・・身も心もね。この意味わかるでしょ?あの頃はね若かったから、全部が手に入らない事に我慢できなくて諦めたけど、今ならあなたの代わりになれると思うわ。だからーー」
ぱちん。と何かが弾けた。
まただ、また何も聞こえない。
でも苦しくもないし、悲しくもないから
これでいいんだと心の中で頷く。
あの人はまだ怒っている様子だけど、あたしはもう帰らなくちゃいけない。
もうどうでもいいと不意に思った。
そう。何かはもう分からないけど失くしたものは、きっとどうでももういいんだ。
心が軽くなった。
夕焼け空がやけに綺麗で胸が温かくなる。
時はやっぱりゆっくりと逆回りしているようで、無かった事のように色々な事が曖昧な記憶になっていく。
大切なのは変わらない日常を過ごす事。
大切なのは家族のような気持ちで獠の隣にいる事。
「そっかあ・・そうなんだよね。」
心はどんどん軽くなる。
ふわふわふわふわまるで自分じゃないみたいで何かが切り離されていくようで。
随分と身軽になった気がして、足取りも弾んでいく。
頭の中は今日の夕飯の献立でいっぱいになる。
そうだ、今日はハンバーグにしよう。
冷蔵庫の中身を思い浮かべ、足りないものを頭で算段しながら馴染みのスーパーへと急いだ。
花園神社を横切り、立ち並ぶ店舗をいくつか通り過ぎたその時、ショルダーバッグから振動が伝わり、歩みを緩め、中に鎮座する携帯を取り出し開いた。
ディスプレイに表示された文字に香の顔に戸惑いの色が浮かぶが、直ぐにゆるりと頬を緩め赤いマークのボタンを人差し指で弾いた。
「もしもし?」
2020.2.28
バレンタイン用に書いていたお話ですが、大遅刻になりました(*´-`)
ホワイトデーと繋がる予定です。
後でまたあとがき書きたいと思います。
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