キオク ミライ 記憶 未来の先は
多分あたしには忘れている記憶があるんだろう。
どうしても顔は思い出せないけれど。
出会えばきっと、あなただと分かるとあたしの全部が知っている。
顔も。
声も。
わからないけれど。
癖のある髪や、広い背中はちゃんと覚えているから。
春、夏、秋、冬。
季節をいくつ巡っても、忘れられないこの想いは痛くて痛くて、とても甘い。
肩にかかる髪が少しだけ鬱陶しい。カチャカチャと気ぜわしい音が響く中、ぼんやりと視線の先の艶ややかな黒髪を見つめる。まとまった綺麗な髪を指先でやんわりと払う姿が様になり、大人の女性の看板を首から下げている錯覚が見えるほどに、全てが洗練されている。
「はあああ……」
それはそれは盛大なため息が漏れる。
幸せ逃げちゃいますよ。と、隣からコソッと耳打ちされたが、
「ないわよ。そんなの」
と口を尖らせる。
「またまた~!」
「だから~! どこに落ちてるのよ、そういうの」
ますます尖る口に、あれ~? と首を傾げながら、おかしいな。だってあれだけ。などとブツブツ言いながら、目の前の少しだけ年下の栗色の髪の持ち主が、納得のいかない顔で、ぐいと覗き込んでくる。
「香さん! 嘘ついたってダメですよ!」
「なに? 訳分かんないんだけど。ひかるちゃん何言ってんの?」
「だから~! もう! 無自覚にも程がありますよ」
「何が?」
香が首を傾げると、フン! と鼻息荒くひかると呼ばれた栗毛の女性が詰め寄る。
「ち、近いってば!」
「あたし! 狙ってたんですよ。あのイケメンサラリーマン。背広って男子力五割増しじゃないですか? その上爽やかイケメン! しかも上場企業の社員だなんて、そんな高物件滅多にいないんですよ!」
リサーチ力に感心しながら、だからそれがどうしてあたしに。と迫る顔を押しやりながら、噛み合わない会話に抗議の声を上げる。
「そうかもしれないけど、そんな人ならもう素敵な人がいるんじゃない? そもそもなんであたしに怒ってんのよ」
至ってまともな意見を投げかけるが、ひかるはじっとりとした視線を絡めてきた。
何か言葉の選択を間違えたのだろうか。
再度香が首を傾げると、くううぅぅ~~っっと両手に握り拳を作り、栗色の髪が身悶えている。なんだかメンドクサイことになってきた気がして、香が少しだけ視線を泳がせる。
ぴよぴよと瞳があちらこちらに泳ぎ、落ち着かない香の目の前に、ビシィッと人差し指が突き出された。
「へ?」
「だーーかーーらーー! あの爽やかイケメンの沢さんは香さん狙いなんですよ! 毎日毎日通ってくるのもそのためなんですうっ!」
名前までリサーチ済みなのがとてもひかるらしい。なにしろ気に入った客が来る度に得意の接客トークでアレやこれやと情報収集に余念がないのだ。あれも立派な特技よね。探偵とか向いてるんじゃない? といつも感心させられているのだ。
だけど。そのリサーチは違うと思うんだけどな。
「それはないと思うわよ。だってあたし、沢さん?に声かけられた事ないから」
「香さん……、それはですね、掛けにくいんですよ、声」
「はい?……あたし、怖い顔でもしてる?」
愛想が悪い部類ではないはずなんだけどなと香が独りごちる。背の高さが災いしているのだろうか。接客業としてはあまりよろしくない気がして、う~んと顎に手を当て香が唸る。
「違いますって! そうじゃなくて、高嶺の花? っていうのかな。声かけても相手にされないかな~〜的な雰囲気があってですねーー」
タカネノハナ?聴き慣れない単語に、一瞬、脳内で変換が上手くいかず、秒単位で固まり、はたと我に帰る。
「なにそれ? やめてよ。ないない。ない!」
両手をブンブン振りながら全力で否定をする。
「自覚なしって……あ! あと……」
「うん? あと?」
口籠るひかるに思わず聞き返す。
「怒らないですか~?」
伺うように威勢を引っ込めたひかるが語尾を緩く伸ばしながら、問いかける。
怒るような事なのかと、ますます聞きたい気持ちが募り、
「怒らないわよ。」
と、ゆるりと笑う。
「じゃあ、言いますね。香さんてーー」
フワフワとした栗色の髪が揺れ、あたしなんかよりよっぽど女の子らしいのに。と香が瞳を細める。
なんだろう。
とても懐かしい。
こんな風にあたしはいつも誰かを羨ましく見つめていた気がするーー
「かーおーりーさん?」
「うわっ! ご、ごめん!」
「五秒ぐらいどっかにいってましたよ」
「う……ごめん」
「……香さん、誰か忘れられない人いるんです…か?」
胸にサラサラと風が凪いていく。
緩やかに暖かくなる胸の内側が心地がいい。
ふうと一息ついて香がゆっくりと口を開く。
「……どうして?」
「えと…だってたまに気づいたらですね、ぼんやり遠くを見ていたりして、それがまるでそこに大切な人がいるみたいな? そんな切なそうな顔してるから。それに……」
自分はそんな顔を見せていたのかと、驚きと恥ずかしさでカアッと頬が暑く火照る。
「今までも実はイケメン達が香さんに声を掛けようともしてたんですよ」
「え? そんなことあったっけ?」
「あったんです!」
鼻息荒くひかるが控えめに声を上げる。何しろまだ仕事中だ。昼時の忙しい時間は過ぎたとはいえ、全く客がいないわけではない。ザッと辺りを見渡して、特段こちらに関心を向けている様子はないことを確認すると、ひかるに視線を戻して、困ったように眉を下げる。
「だから、それ!」
「へ?」
だから何が? カラスがカアと頭の上をはパタパタと飛んでいく。カラスも香の口もパックリだ。
「いざ声を掛けたらですね、そんなふうに困ったように笑うんですよ! 香さん。あ、ダメだったのかなあってみんな諦めちゃうんです」
「……はあ」
そんなことあったのだろうか。ひかるの脳内でなんでも色恋に結びつけるフィルターでもあるんじゃないかしら? 思わずそんな考えに至る。
「誰かいいヤツいるのかな。って思うワケですよ。みんな。あたしも思ってますし」
「……」
「あ!否定しない。やっぱりそうなんですか?」
クリクリとした瞳を輝かせながら、好奇心全開で迫るひかるに言葉が詰まる。
V字の胸当てタイプの黒いカフェエプロンは
ひかるの豊かな胸が強調されていて、間近で見ると同性の香でさえドキリとさせられる。
あたしなんかよりあなたの方がよっぽど女の子らしいのに。感情豊かなひかるを香は羨ましくも思う。こんな風ににキラキラしたものを自分は持ち得ていないから。何かをどこかでいつも諦めている自身に、自嘲の笑みを浮かべて香は視線を落とした。
「……忘れられないんじゃなくてね」
呟くように言葉を漏らす。
「本当に覚えてないの。どこの誰かも、名前や声も」
「え!?……」
驚きで丸く瞳を見開くひかるに、香が静かに首を振る。
「ど、どうしーーーー」
「おーい! 槇村君に仲間君。そろそろお客さん増えてきそうなんだけど。仕事に戻ってくれるかなあ?」
ひかるいわく、31歳、独身、絶賛彼女募集中らしい店長が、少し間延びした声で二人の間に割るように立った。
悪くはないんですがちょっと何考えてるかわかんないとこがな〜と、何やら熱心に見入っている表紙に、『イケメン帳』 とやたら大きく書かれていたのにはあえて触れずにいた。
「やだ、店長! 今すごくいいところだったのに!」
「仲間君、今仕事中」
咎めるようなきつい口調ではないが、それ以上は続ける事ができないような雰囲気に、ピリと場の空気が締まる。
「う……わかりました。すみませんでした」
「あたしも…すみませんでした」
こうべを垂れる二人に、
「きちんと仕事してくれればそれで」
ニッコリと笑みを浮かべる様子がなんだか喰えなくて、ひかるの頬がひきつっていく。
「はい。じゃあ、仕事、仕事」
「だからあ…三角なんだってばあ! もう!ーーーー」
背中越しに店長を睨みつけながら、イーとひかるが口を結ぶ。店の入り口へ進み、いらっしゃいませ〜と瞬時に仕事モードになれるのは流石だなあと感心する香を、佐々木が心配そうに見つめている。
「大丈夫?」
「は、はい。って……何がですか?」
「いや、その…聞かれたくない事じゃなかったのかなって、ね」
「あ! いえ……隠してるわけじゃないので。でも…正直すぐにはなんで答えていいかわかりませんでした」
「そっか……」
香の事情を知っている佐々木はこうやって、さり気なく気遣いをみせてくれる。
隠したいわけではないが、上手く思考が回らなくなるのは事実で、あえて触れられたい事柄では無かった。何を考えているかわかりにくいと、ひかるから酷評されている佐々木は、実際にはとても面倒見がいいわかりやすい優しさの人だと思う。少なくとも、あの頃の不安定だった香に働く場を与えてくれ、一から仕事のノウハウを教えてくれた佐々木には日を追うごとに感謝の気持ちが深まっていた。
コポッとサイフォンから心地いい音が響く。
不思議とこの音が香はとても好きだった。何故か懐かしいような、胸の内側にトンと触れられているような気さえした。
「まだ……思い出せない?」
とても珍しいと思った。佐々木は香の記憶に関しては必要以上に入り込んではこない。香が少し戸惑った顔を向けると、佐々木は困ったように頭を掻いた。
「…はい。でも……あたしがそう思ってるだけで本当はそんな空白なかったのかも。覚えていない期間はあっても、誰か。なんていないのかもしれません」
嘘をついた。もうこれ以上心配をかけたくなかった。いつ思い出せるかわからない事で誰かの顔をこんな風に曇らせたくはない。
心地よく働ける今のこの環境が有れば満足だと思える。時折胸を過ぎる想いは、苦しいものではなくて、いつも温かい。きっと楽しくて嬉しくて大切な記憶なんだろう。だから、ゆっくりでいいと思う。そんなこと、と笑われるかもしれないが、もしまた出会えたらあたしは必ず分かるはずだから。
肩をすくめて柔らかな笑みを浮かべる香に、佐々木はそっか…とだけ小さく呟く。
パラパラとお客が途切れることなく店内に顔を出して、店の様子が一気に活気付いてくる。
今日のランチは厨房のシェフ特製のビーフシチューがメインで密かな人気メニューだ。トロトロとほどよく口の中で崩れる肉は大きく食べ応えがあって、男性客のリピーターも多い。近くにオフィス街のビルが立ち並び、ランチを提供するカフェも少なくない激戦区の中、人気店の中に数えられるこの店が香の今の世界の全てだ。
優しい店長もおしゃべりで可愛い仕事仲間も時々なんだかとてもくすぐったく感じて、知らず、心の中で俯く。何故かはわからなかった。
兄が死んだのは覚えている。
冷たい雨が降る日だった気がする。
そこから何年かの記憶が霞む霧のように消えていく。断片的に浮かんでは消えていく。
優しい人たちに囲まれていた気がする。嫌なことなんてなかったように思えてならない。
だからこそ疑問ばかりが募る。
どうして思い出せないのだろう。だけど焦りはなかった。ただ一点信じるものがあるから。
優しく笑うその笑顔をきっとあたしはとても好きだったんだと思う。
それだけは忘れていないから。
「かーおーりーさん! もう! お客さんたくさん来てますよ。ほら、働く働く!」
ひかるの声に慌てて店内を見渡せば、いつの間にか席は満杯になっていて、佐々木も香も持ち場へと急いだ。
店の一角がガラス張りの店内には、日差しが降り注ぎ、奥の方まで伸びている。
「香さん〜! こっちお願いします」
ひかるのヘルプにエプロンの紐をきゅっと結び直して、はーいと軽く答え、席と席の間を進んでいく。磨き上げられたフロアは気持ちがしゃんとなる。
ふと何かを感じた。
なんだろうと思わず振り返ると黒い瞳に出会う。
真っ直ぐに射抜くように見つめる瞳に困ったように香が笑う。
「香さん!」
「あ、待って。すぐに行くから」
ひかるの機嫌を損ねないうちに急いで行かなきゃと内心焦りながら、立ち尽くして動かない目の前の男に声を掛ける。
「ごめんなさい、今お店一杯で」
「あ、いや……今そこの席に案内されたんだ」
そう言いながら席を指差す男にほっと安堵し、
「そうなんですね。失礼しました。後でオーダー聞きに行きますのでもう暫くお待ち下さい」
と、申し訳なさそうに頭を下げる。
「……ああ」
男の言葉を背に、ひかるの様子を横目で確認して、それでは。とその場を離れる。
スーツ姿の男性が多い店の中で、秋口なのに長いロングのコートなんて珍しいなと
男の様子が気になったがそれもすぐに忘れるぐらいに店内は昼のランチどきのピークを迎えている。
そういえばあの客は初めてではない気がする。数日前にも見かけた記憶がある。
「シチュー、好きなのかな?」
アンバランスな感じがするが、まあいろんな人がいるわよねと、特別気にすることなく意識の端へと飛んでいく。
「追加きました。香さん、あちらのオーダーお願いしますね」
「わかった」
ここ数ヶ月でひかると香の連携は、店の活気を後押しするぐらいに潤滑になっている。
幸せはふとした瞬間に訪れるという。今の自分は充分幸せなのかもしれない。
「三番テーブル、シチューランチ二つオーダー入りました」
「はいよ」
厨房にオーダーを頼んで、次の客のオーダーを聞かなきゃと忙しく足を動かすと、
「いらっしゃいませ〜!」
と店内に響く声に、入り口に視線を移すと二人連れの男性客が視界に飛び込んできた。
トクンと香の胸が跳ねる。
似ている面影に心はとても正直で、トクントクンと更に波打つ速さが増していく。
相手の男性と談笑しながら奥の席へと進む背中に目を奪われる。違うのに。似ているだけなのにどうしてこんなに。
薄茶色の髪は差し込む光の反射を受けて、淡く光る。
屈託のない笑い顔が、記憶の中の霞む姿のようで囚われる。
「……何やってんのよ」
穏やかで幸せな日常と、どうしようもなく足りないものと。
泣きたくなる気持ちに蓋をして、重なった面影に背を向けて前を向いた。
2020.9.16
途中になっているお話がありますが先にこちらを進めていけたらと思います🙏パソコンに眠っていたお話を少し変えながら書いています。
続きものの予定です🙏お付き合い頂けたら幸いです😊
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