キオク ミライ 記憶 未来の先は 2 (文
「ランチを一つお願いできるかな」
「ランチですね。お飲み物はどうされますか?」
「…コーヒーを」
「はい。コーヒーですね」
オーダーを取りながらも、先程の二人連れの客を視界の端で追いかけてしまう。
仕事中だ、いけない。とふるりと首を振れば、接客中なのを思い出して、慌てて客の方に視線を移す。
「す、すみません! こ、こ、こ、コーヒーはしょ、食後にお持ちいたしましょうか?」
動揺に比例するようにひっくり返る声とどもる言葉に、カーッと頬が熱くなる。
目の前の客はじっと香を見つめている。無表情でなんだか少し怖い。怒らせてしまったのかと、冷や汗が背中を一筋伝っていく。
「あ、あの……」
「……食後で」
ふっと目元が緩む。その仕草に安堵し、食後ですね。と繰り返す。
あんなことでいちいち心を乱していては、接客業など向いていないと言われてしまいそうで、ズキンと胸に響く。
誰に言われるというのだろう。
それすら分からないのに、どうしようもなく焦るこの気持ちはなんだろう。
「食後にお持ち致しますね」
「…気になる?」
「はい。……って、はい?」
意味の分からぬ問いかけに驚いて、発した声の主をまじまじと見つめると、
「見てただろう? ずっとさっきからあっちの客を」
そう言いながら、先程入ってきた二人連れのあの客に視線を移す。
カーーーーッと体中に火照りが駆けめぐっていく。
見透かされている。
羞恥で思わず顔を逸らせた香に思いの外優しい声が降りてくる。
「すまない。……悪い癖だよな…。責めてるんじゃないんだ。こっち、向いてくれない…かな?」
「え?」
意味がわからないまま男の方を見ると、
困ったように笑う男の顔に、香の眉が泣き出しそうに下がっていく。
「すみません! 不愉快な思いをさせてしまって!」
深く深く頭を垂れる。動悸もしている。右手が少し震えて、抑えるように左手でギュッと強く包み込む。
「あ、いや……だからそうじゃなくてだなーー」
「本当にすみませんでした! あ、あの、ランチすぐにお持ちしますね」
顔を合わせることができないまま、とにかくこれ以上迷惑をかけまいとオーダーを早く通したい一心で、駆け出しそうな勢いで厨房へと滑り込む。
「ランチ一つお願いします」
今やりとりしていた客はどんな様子だろう。
怒っていたような、困っていたような。どんな顔をしていたのかさえ、よく覚えてはいない。
振り向いて、確認をしたい気持ちはあるが、止まない動悸が邪魔をする。
「ダメだなあ……あたし」
客に不快な思いをさせてしまった事に情けなさが込み上げてくる。後でもう一度きちんと謝ろうと気持ちの切り替えに努めるように、ひとつ息を吸う。
それでも斜め右後ろの角度に意識がどうしても引きずられる。
香の中の面影にはぼんやりとした色しかない。
名前も顔も声さえも分からないのに、出会えば分かると思えるのは何故なんだろう。
「かーおーりさん!」
「うわっ!」
思考の渦に呑まれていた香の首元から、ニョッキリと白い腕が伸びてきて、ひらひらと手のひらが揺れている。
「しっ、しーーーっ! もう、香さん! また店長に怒られちゃいますよ」
慌てた様子で、キョロキョロと名前の出た人物の様子を伺うひかるに、
「ご、ごめん…」
と、小声で返す。
「香さん、あのお客さんのこと考えてたんでしょ?」
同じく小声で店内をチラチラと見ながら、ひかるが香の耳元で問いかける。
ひかるにまで分かる程だったのかと、恥ずかしさで言葉が繋げず、頬がまた熱くなる。
「すっごくいい男ですもんね」
「…………」
「でも、なんだかちょっと雰囲気が…」
「………?」
うーん。と言葉を漏らしながら、ひかるが視線を動かす。
「ここに来るお客さんとは、雰囲気が違う気がして。ちょっと謎だなあ」
「え?」
香の瞳には、スーツ姿に見えたがそうではなかったのだろうか。髪の色も特段派手なものでもなく、一見爽やかなビジネスマン風でひかるに警戒心を持たせる風貌には思えず、うん?と首を傾げる。
「ひかるちゃん…誰のこと?」
「えーーー!? 香さん話してたじゃないですか! ロングコートの人! ずるいですよ〜、イケメンは分け合いっこです!」
「話してた?」
「はい」
「コート?」
「だから〜! そうですってばあ」
暫し頭の中で言われた言葉が巡回して、ぴぴっと香の中で符合する。どうやらひかるは勘違いをしているらしい。
安堵と共に、クスッと笑いが溢れる。
ひかるの綺麗に施されたつけ睫毛がパチパチと揺れて、ポカンと口を開けて香を見ている。
「ひかるちゃん、あれね、私のミスでお客さんに謝ってただけなの」
「ミス?」
「そう。だからね、ひかるちゃんが思うようなのじゃないのよ」
「え〜? でも考え事はしてましたよね?」
う、鋭い……
内心冷や汗が出たが、悟られぬように平然を装う。
「そ、それは、だ、誰かとじゃなくて……た、ただちょっと考え事を」
「なんのですか?」
「それは……ほ、ほらひかるちゃん。ランチ出来上がってきてる! 運ばなきゃ」
タイミングよく厨房からランチが次々と上がり、ね?と促すようにひかるにアイコンタクトを送る。
まだ納得のいかない様子のひかるに背を向け、ランチを二つ皿に乗せると、先程の客の元へと向かう香に弾けるような声が飛ぶ。
「香さん! あのイケメンさん私が持って行きます! リサーチです、リサーチ!」
同じく皿にランチを二つ乗せたひかるが、ガッツポーズを作りながら足早に香に並んだ。
「ん? イケメンさん?」
ちゃんと顔を見ていないとは言えず、さりとてひかるのイケメン基準に口を挟むのは面倒な事になりそうなので、曖昧に笑みを作る。
「香さんがさっき話してた人ですよ。いいですか?」
いいも悪いも無いのだが、先程の事をもう一度謝りたいと思っていた為、一瞬躊躇いが生まれる。
「いってきま〜す!」
香の返答を聞くこともなく、底抜けに明るく軽く右手を上げるひかるに、ぷっと思わず笑いが漏れ出る。こんな明るさは気持ちがいい。香はひかるの溌剌さがとても好きだった。
「いってらっしゃい」
謝罪は後で清算の際に、なんとかタイミングを合わせて一言でも伝えたいと思いながら、ひかるに笑顔で答える。
自身が持っていくランチの客を確認しようと厨房に戻ろうとすると、ひかるが胸元で控えめに人差し指で客の方を指差している。その先を見やると、香が息を呑んだ。
ひかるが指差す方には、二人連れの男性客が談笑している。
ちゃんと歩けているのかわからないまま、辿り着き、僅かにカタカタと震えるトレイを持つ右手に気づかれたく無いと願いながら、声を掛ける。
「ら、ランチお持ち致しました」
香の声にゆっくりと上げたその瞳に、胸が強く掴まれる。心臓ってこんなにも痛くなるんだと思った。
似ているのかもしれない。
多分、似ているんだと思う。
今まで会った誰よりも。
こうやって間近で見ると余計にそう思ってしまう。
ブラウンがかった瞳はとても優しい瞳をしている。
きっとあたしは上手く笑えていない。
心臓が飛び出てなくなりそうなぐらいに、痛みが増していく。
「ありがとう」
泣きそうになる。あたしが聴きたかった声かもしれないと思った。
震える手でカチャカチャとランチの皿を並べるが、立っているのがやっとなくらいで、苦しい。痛い。
ちゃんと見ることができずにいると、
「大丈夫ですか?」
と、穏やかな声が耳に届く。
「は、はい。すみません…」
どんどん震える声はきっと相手に不審がられてしまうだろう。早くこの場から去りたいと、残りのランチの皿をぎこちない手つきで全て並べ終えると、気持ちに比例するように頭を下げる。
「おい」
「ああ」
「大丈夫かな」
「顔色悪い…よな」
二人のやり取りが聞こえてきてはいたが、顔を上げられずにいると
「槇…村さん?」
と声が掛かり、驚いて顔を上げると、困ったように笑うブラウンの瞳に視線がぶつかる。
「あ、すみません! そこに名前があったから……具合、悪いんじゃ無いですか?」
そう言って、香の胸元のネームプレートを指差しながら、問いかけてきた。
『槇村さん』
『香』
軽い目眩がする。
ガラス越しに差し込むは光は初めての残像を連れてくる。
重なる掌と重なる唇。
あれはーーーー
「あの……」
「…ごめんなさい、大丈夫です。後でコーヒーお持ちしますね」
「そうですか、よかった。お願いします」
「はい」
背を向け、気づかれないように深く息を吸う。
「あの…」
「え?」
不意にかけられた声で振り向いた香に、バツが悪そうに頭を掻きながら男が口を開く。
「食後にこのスペシャルパンケーキお願いできますか?」
「パン…ケーキですか?」
「はい。このメイプルシロップをたっぷりでお願いします」
「は、はい? あ、はい!」
面食らった顔の香に、
「こいつ、めちゃくちゃ甘党なんですよ。な?」
と連れの男性が愉快そうに笑う。
「いいだろ? 好きなものは好きなんだから」
「おまえの腹どうなってんだよ」
「おまえこそこんな上手いもの食わないなんて、人生もったいないぞ」
「うげ! いらね」
「おいコラ。店の人の前で失礼だろ」
「あ!……す、すみません」
テンポよくやり取りされる仲の良さを感じる会話に、心がふっと和む。
「甘い物、お好きなんですね」
うるさかった胸の内側が、ゆっくりと凪いていく。
「はい。あ…なんか男がこういうの恥ずかしいのかもしれないけど」
香と同じぐらいであろう年の男が、ほんの少し耳を赤くしながら、照れたように笑う姿はとても懐かしく思えた。香の頬がゆるりと解れていく。
「そんなことないです。たくさん食べて頂くのはとても気持ちがいいです」
「よかったな。甘党認定してもらえて」
連れの男性はニヤニヤしながら、目の前の男を揶揄い、男は更に耳を赤く染めていく。
「こいつ、店に入ってからずっとあなたのこと気にしてたんですよ。な?」
「わ!ば、ばか!やめろって!!」
香と男の瞳が合わさる。どんな顔をすればいいか分からず、眉尻を下げる香に慌てた様子で男が頭を掻く。
「なんか、すみません」
「い、いえ!」
お互いにほんの少しの気まずさが交差するが、けして嫌な気持ちではなかった。
「ほんと、すみません」
「い、いえ、ほんとに、そんな…」
ゆでダコみたいに真っ赤っかに茹で上がったような香に、俯き加減で耳や頬が赤く染まり頭を掻く男と。
中学生かよ! と心の中で独りごちながら、連れの男性が助け舟を出す。
「じゃあ俺も食後にそうだなあ……あ! このあんみつお願いします」
「……あんみつってお前好きだっけ?」
「まあな」
「あ、あんみつ追加ですね」
雰囲気が変わった事にほっとしながら、オーダーを書き込む。大丈夫。右手は震えてはいない。平常心を保てず何度も心が乱れた事に、ペンを握る指に圧が強まる。
「後ほどお持ち致しますね」
「お願いします」
パンケーキ。あんみつ。パンケーキ。あんみつ。
フワフワとした気持ちと、ギュウと胸を掴まれるような気持ちを誤魔化すように、二つの単語を頭の中で繰り返しながら、歩いていく。
こんな気持ちを以前の自身も感じていたのだろうかと瞳を細める。
「ランチ後に、パンケーキとあんみつ追加です」
厨房はひと段落ついたのか、少しだけ緩やかな空気が流れている。カタンカタンと洗い終わった皿を並べていく音の旋律に耳を傾ける。
「終わりそうな頃合いにまた声かけてくれ」
「はい」
やっと周りを見る余裕を取り戻して、何気なく窓際と反対側に視線を向けると例のあのロングコートの男性とひかるが談笑している。
とても楽しそうな様子に香の顔も綻ぶ。
あたしもあんな風に笑えたらいいのに。
屈託のない笑顔は、同性の香から見ても魅力的だと思う。
似ているから気になるのか。
気になるから似ていると尚思うのか。
どちらなのかと考えてみても結局何も答えは見つからない。
大切にしたいだけなのだ。
抱えた想いは温かく優しいから。
だから優しさを重ねたいのかもしれない。
この記憶が間違いないと。
あたしは愛されていたんだと。
緩く緩く弧を描くように、何かが解けていく気がした。
先程のガラス越しにしていた事は本当に自分なのだろうかと戸惑いは大きいが、五感のどこかで疼く感覚があるのは確かだった。
切ない。甘い。愛しい。
どれもが本当だとすれば、あたしはきっと一生で一度きりの恋をしていたんだろうと願う。
ポーンポーンと一時の時刻を知らせる時計の音が低く鳴り、店の回転が穏やかになっていく。
「槇村さーん、レジお願いします」
食事が終わった客の後片付けをレジ近くで行っていた香に、店長の佐々木の呼ぶ声がする。
はい。と素早く片付けを終えて、急いでレジへと向かう。あまりレジには入った事がない為と、機械類が致命的に苦手なこともあって、ぎこちなくレジを確認していると、タイミング悪くレシートの紙が切れており、交換を余儀なくされる。
変えたことあったっけ? あったけどあの時はレジがフリーズして大変だったのよね。そういえば店長も苦笑してたっけ……と、ぐるぐると過去のやらかし案件が浮かんで、ぶるっと身震いがする。
伺うように、周りを見るが近くの従業員はみな接客中で助けを求めるのは躊躇われた。
モタモタとどんどん焦る香に、
「…交換レシートってこれ?」
そう言いながら、目の前に太い腕が伸びてくる。
「!?」
「これ?」
「あ、は、はい!」
香の言葉を受けると、的確に指示が飛ぶ。
「そこ開けてみ」
「こ、ここ?」
「違う違う。その横」
「あ、はい」
「で、そこにそっちを右側にして入れてみ」
「えと……こっちですか?」
「そうそう。で閉めて、そのボタンをポン」
言われるままレジを弾くと、レシートの頭がクルクルと出てきて、香は思わず声を上げる。
「わ! 出来た!……あ、ありがとうございまーーーーへ?」
そこにいたのはあのロングコートの客だった。レジに必死でまるで視界に入っていなかった分、驚きで紅茶色の瞳がゆらりと揺らぐ。
「さ、さっきの!」
「……さっきはすまなかったな」
男の謝罪の言葉に、ブンブンと香が首を振る。
「謝らなくちゃいけないのはあたしの方です。本当にすみませんでした」
よかったと思った。結果、最後にまた迷惑をかけてしまったが、こうやって謝る機会が持てたことで気になっていた胸の支えが降りた気がした。
「あたしこういう機械が苦手で。今もどうしようかと思っていたところを助けて頂いて、ありがとうございます」
香がこの店に来て一年ほどになるが、未だにレジは慣れない。元々からきっとそうだったのだろうと思う。
「そうだよな…そうだったな……」
「?」
細められた瞳は深い黒の色だと気づく。
穏やかだけど哀しい色に満ちている。
どうしてこんなに哀しそうなのかと不思議に思った。
過去形のような言葉のニュアンスが気になり、再度声をかけようとするが、レジを待つ次の客がいる事に気付いて、手早く釣りを渡して深く頭を下げた。
ロングコートの人は背がとても高いんだなと去っていく背中を見ながらぼんやりと思う。
哀しい色を纏う背は、日差しの下でもまるで消えていくように揺れているように見えた。
「あの……」
次の客がいることを掛けられた声で思い出して、慌ててレジのほうに振り向く。
「あ……」
「さっきはすみません!」
「いえ…こちらこそ」
香の心に淡い想いが灯る。
それを隠すように無言でレジを打っていく。
「お二人で三千八百円になります」
「あ、じゃあこれ一緒に」
財布からお札と硬貨を取り出してトレイの上に置くと、あの、と男が香をじっと見つめる。
無言のまま見つめ合う二人に業を煮やした連れの男性がニンマリと笑い香に伝えた、
「こいつ、武田。っていいます。よろしく」
「ば!? バカ、お前何言ってーーーー」
すかさず武田と呼ばれた男の口を塞ぎ、ニコニコしながら更に言葉を続ける。
「おれは長野です。また来ます。こいつももちろん一緒に」
含みを持たせた言葉を残して引きずるように武田を連れ出していく。
店の外では、真っ赤になりながら武田が長野に喰ってかかっているように見えた。
「……武田さん。に、長野さん……」
また。って言っていた気がする。
また会えるのだろうかと思うと、とくとくと分かりやすく気持ちが波打っていく。
あたしはちゃんとあたしを知りたいと思う。
少しづつ変化が訪れている気がして、まだ見えぬ未来にほんの少しだけ希望を願いたいと思った。
「よかったな、名前覚えてもらえて」
「おまえなあ……あんな強引に。変なやつって思われるだろ!」
「何事もきっかけだろ? 気にするな」
「気にするだろ!」
「うるさいなあ……一目惚れなんだろ? 当たって砕けろよ」
「砕けねーよ!」
「まあ、頑張れ」
「……お前がいてよかったよ」
先程まで店にいた二人連れの男の声が遠ざかっていく。
その内容に、眉間が深く寄せられる。
「ガキが」
苦々しく発せられた言葉は八つ当たりでしかなく、正当性はどこにもないことは分かっている。それでも口を突いて出る。
あんな場面を見たいんじゃなかった。
誰か別の奴をあんな風に見つめる瞳は、違う誰かのようで、思う以上に焦れて、堪えた。
去る事ができないまま、しばらく立ち尽くしていると、背後を取られる。
反射的に振り向きざまに、コートの内側の塊を右手で掴むと同時に、聴き慣れた声に警戒を解く。
「……私に気づかないなんてらしくないわね」
「……なんでこんなところに?」
「それはこっちのセリフよ」
静かだが容赦のない声色の声が刺さる。
「ねえ? 離したのはあなたでしょう? ここはあなたが顔を見せるべき場所じゃないはずよ。そのリスクをわかってる? こんなこと……香さんを守ることと正反対じゃない!」
強くなる語尾に、何も言い返す事ができない。ぐしゃりと顔が歪む。
「……分かってる」
「分かってないわよ! だったら、どうして! 冴羽さん!」
記憶はキオクに上書きされていく
優しいキオクであればいいと思う
未来はミライに変わっていくはずだから
ミライの先に待つものが、あなたにとって
優しい色でありますように
ガラスの向こうに広がる世界にはきっと希望が待っている。
跳ねるように店内を移動しながら、眩しそうに光の先にそっと手を伸ばした。
2020.9.25
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